東京地方裁判所 昭和61年(ワ)11559号 判決 1992年6月11日
原告
甲野春子
右訴訟代理人弁護士
田原俊雄
同
加藤文也
同
斉藤豊
同
亀井時子
同
大森典子
被告
学校法人松蔭学園
右代表者理事
松浦ヒデ子
右訴訟代理人弁護士
山西克彦
同
岩井國立
主文
一 被告は原告に対し、金四〇〇万円及びこれに対する昭和六一年一〇月五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は原告に対し、金一〇〇〇万円及び内金五〇〇万円に対する昭和六一年一〇月五日から、内金五〇〇万円に対する平成二年四月一三日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、被告の設置する高等学校の教諭である原告が、被告から、それまで担当していた学科の授業、クラス担任その他の校務分掌の一切の仕事を外され、席を他の教職員から引き離されて配置された上、何らの仕事も与えられないまま四年六か月間にわたって一人だけが別室に隔離され、更に五年余の長期間にわたって自宅研修をさせられ、年度末一時金の支給停止や賃金の据え置き等の差別的取扱いをされているのは、原告が組合活動家であることを理由としたものであって、不当労働行為であると共に、業務命令権の行使を濫用した違法な命令により人格権、自由権、名誉等を侵害した不法行為に該当すると主張して、被告に対し、慰謝料の支払を請求している事案である。
一争いのない事実等
1 当事者
(一) 被告は、昭和一六年に設立された学校法人であって、肩書地において幼稚園、中学校(女子)、高等学校(普通科及び商業科、いずれも女子)を有する他、神奈川県厚木市に短期大学(女子)を有しており、昭和六一年度の生徒数は、中学校及び高等学校を合せて約一六八〇名、教職員は六九名(うち二八名は講師)であった。また、高等学校の校長は被告代表者の松浦ヒデ子が兼ねており、その息子の松浦正晃が副校長の地位にある。
(二) 原告は、昭和四六年三月、東京都立大学理学研究科修士課程を卒業し、昭和四八年四月、被告の設置する松蔭学園高等学校(以下「学園」ともいう。)の専任教諭として採用され、以来、昭和五四年まで地理、世界史、日本史等の授業を担当した他、昭和四八年度から昭和五一年度までは普通科の、昭和五二年度及び昭和五四年度は商業科の、各クラス担任を受け持ち、また、担任以外の校務分掌として渉外部(PTA係)、教務部(計画管理係、補導係)、生活指導部(保健衛生係、漢字・ペン字係)等の職務を担当してきた。
なお、被告において教師が行う業務には、①授業、ホームルーム担任など基本的教育業務、②職員朝会、学年会議、職員会議、成績会議、各種検定業務、入試業務、クラブ活動などの教育間接業務、③入学式、卒業式、学園祭、体育祭、松蔭会(職員の親睦会)などの学校行事、④教務係、PTA係などの校務分掌などがある。
(三) 被告には、原告ら四名の教職員が昭和五五年四月六日に結成し翌七日に被告に通知した松蔭学園教職員組合(以下「組合」という。)があるが、原告は、組合結成以来のメンバーの一人であって、結成と同時に執行委員となり、昭和五七年九月から現在に至るまで執行委員長の地位にある。組合の上部組織は、東京私立学校教職員組合連合会(以下「私教連」という。)であり、組合は結成と同時に私教連に加盟している。
なお、私教連に加盟している労働組合として他に東京私学労働組合(以下「私学労組」という。)があり、原告は、同僚の教諭である矢口由紀子(以下「矢口」という。)及び森弘子(以下「森」という。)に続いて、昭和五四年四月二五日、右私学労組に個人加盟し、組合結成の準備をするようになった(原告本人の尋問の結果、<書証番号略>)。
2 被告の原告に対する措置の概要
(一) 授業・担任等の仕事外し
原告は、昭和五五年四月の新学期から、それまで担当していた学科の授業、クラス担任その他校務分掌の一切を外され、以後、出勤しても特に決った仕事がなく、被告から仕事が与えられない限り、一日中机に座って過さざるを得ない状況となった(以下「仕事外し」という。)。この仕事外しは、原告の勤務態度が不良であることや約束違反があったことを理由にして行われたというものである。
(二) 職員室内での隔離
原告は、昭和五六年四月以降、以前と同様に仕事外しの状態が続いたまま、原告の言動に起因する他の教職員とのトラブルを回避する必要があるためとして、それまで他の教職員と並べて配置されていた原告の席が職員室内の出入口の近くに他の教職員から一人だけ引き離される形で移動されるに至った(以下「職員室内隔離」という。)。
(三) 第三職員室への隔離
昭和五七年三月八日、原告の使用していた机が、被告によって一階の職員室内から二階の第三職員室と表示された部屋に移動された。もっとも、第三職員室といっても、それまで事務用品等の物置として使用されていた部屋の一部を衝立とカーテンで仕切り第三職員室と表示されただけの場所で、原告は被告から、それ以後は同所にいることを命ぜられた。そのため、原告は自宅研修を命ぜられるまでの四年六か月間にわたり、生徒指導等の仕事を一切与えられず、職員会議への出席等も認められないまま、午前八時二〇分に出勤し午後四時五〇分に退勤するまでの間、終日、同所で過ごす以外にないという状態が続いた(以下「第三職員室隔離」という。)。この第三職員室隔離は、原告と他の教職員との間で二度にわたって暴力沙汰寸前のトラブルが発生したことから不測の事態を未然に防止する必要があるためとして行われたというものである。
(四) 自宅研修
原告は、昭和六一年八月三〇日、被告から、自宅研修を命ぜられた。自宅研修といっても、特別の課題や用務を与えられることはなく、内容はそれまで原告が第三職員室で行ってきたことと同じもので、勤務時間帯は自宅にいることを要求されるというものである。そして、このような状態が現在まで継続している。
(五) 賃金等
原告は、昭和五三年度年末一時金、昭和五四年度冬季及び年度末一時金を全く支給されることなく、昭和五五年度以降は、諸手当・一時金を一切支給されず、昭和五四年度の基本給のみに据え置かれている。
二原告の主張
1 本件各行為の不当労働行為性
原告に対する被告の前記一連の措置は、以下に延べるように、被告の労働組合及び組合員に対する一貫した不当労働行為意思のもとにされたものであり、違法である。
(一) 組合結成準備行為としての学習会活動とそのメンバーに対する攻撃、原告に対する仕事外し
(1) 被告における組合結成の機運は、現副委員長の矢口や原告らが中心となって昭和四九年頃から行っていた「学習会」活動に始まった。当時の被告は、労働条件が劣悪であるにもかかわらず、労働組合もなく、また、教職員が集う唯一の機会である職員会議は、被告の意思の伝達の場としてしか機能しておらず、教育問題、労働条件について語り合う場はどこにもないという状況であった。学習会は、このような状況のもとで、若手教職員の教育実践と職場における意見交換の場として組織されたもので、それは同時に、被告における労働組合の結成準備として意図されたものであった。
学習会は、ほぼ週一回のペースで開かれた読書会を主なものとし、その内容は、教科・教材研究、教育課程研究等の教授実践の研究、班活動による学級運営、生活指導、非行問題、生徒指導の問題等の教育問題を取り上げた他、同時に、これらの教育実践の遂行を困難なものとしている被告の教育環境、教職員の労働条件の悪さ、その改善の方策などが真剣に議論された。学習会の活動は、昭和五五年四月の組合結成に至るまで続けられ、特に昭和五三年度は、被告の若手教員の参加者が二〇名にも上り、盛況を極めた。
(2) このような学習会活動は、当然に被告の知るところとなり、原告、矢口及び森ら学習会の中心的メンバーは、もともと教師集団の自主的な活動を嫌い、教師は学校長の命令に絶対服従すべきであるという方針を持つ被告から、要注意人物とされるようになった。被告が学習会の存在及びその活動を嫌っていたことは、校長の松浦ヒデ子(以下「校長」という。)が職員会議で「校則の枠の中で教育すること」「外で学校と反することをやって涼しい顔をするな」「権利を主張する傾向を押える教育をしろ。宗教、思想について心の中は自由であるが、行動、活動は遠慮して欲しい。」などと発言していたことからも明らかである。昭和五二年から適用されるようになった内規も、学習会の動きを察知した被告が、授業内容の規制、教師の活動の制約を目的として制定したものである。
被告の学習会の中心的メンバーに対する嫌がらせは数多くあったが、特に原告に対する嫌がらせ、攻撃は枚挙に暇がなかった。これは、原告が学習会の中心的メンバーであったことの他に、被告始まって以来、産休を二度取った女性教員であったことから、女性教員は結婚したら退職すべきだという前近代的、封建的感覚を持つ被告の嫌うところとなったからである。
例えば、二度目の産休明け直後の昭和五三年一二月二三日、校長は原告を呼んで、原告が規定どおりの産休を取得したことに対して種々の嫌味を述べた他、「産休を二度も取って学園に迷惑をかけている」「子供の病気で休まれて迷惑だ」などと述べ、原告が子供のことで一回早退しただけであるというと、校長は激怒して「そういう態度が良くない」と更に注意した。
また、昭和五四年二月一四日、校長は原告に対し、「時間割ボードが薄くなっているから、今日中に全部書き直しなさい。」と命令した。時間割ボードというのは、当該年度の時間割と担当教諭名を一覧にして職員室に設置してある縦約二メートル、横約一メートルの木製の表示板で、外枠の中に教科名、科(普通科、商業科)、クラス、担任名を記載した約九〇〇個近くの木製の駒がはめ込まれたものである。確かに、当時、ボードの字の一部が薄くはなっていたが、薄くて読むのが困難という程ではない上、校長が書き直しを命じた二月一四日には、昭和五三年度の全体の授業のうち、三年生の授業は既になく、一、二年生も学年末試験まで余すところ二週間程度の授業しかないという時期であり、したがって、校長のボード書き直しの指示は、このような意味からも全く合理性のないものであった。
時間割ボードの設置及び管理は、校務分掌上、教務部の中の計画管理係全体の仕事であり、また、書き直しはその分量からして原告一人で直ちにできる仕事ではなかったことから、原告がその処置について教務主任である溝口一馬主事に相談したところ、同主事が校長と協議し、その結果、校長はボードの駒のうち担任名だけを書き直せば良いということに指示を変更した。これを受けて、原告は、同日唯一担当の授業のなかった五時限目の空き時間を全部費やして、担任名が薄くなっていた約四〇個の駒を書き直した。
ところが、校長は、同月一六日に原告を呼び出し、一四日に命令されたことを係の責任者に相談したことは上の者を突き上げたことだ、担任名だけは書き直してあるが、他の部分は書き直していない、ボードを校長に指摘されるまで薄いままに放置しておいた、産後休暇を六週間取ったのは良くないなどと、原告を非難した挙句、最後に「産休を二度取ってさんざん学校に迷惑をかけているのだから、人の倍働きなさい、申し訳ないという気持ちで働きなさい、私はあなたに辞めてもらいたいと思っている。」などと述べ、産休明けの勤務態度や時間割ボードをすぐに書き換えなかったことなどを反省して始末書を書いて提出するように命じた。
しかし、被告の就業規則において、始末書の提出は懲戒処分の一つである戒告の要件であり、度重なる戒告は懲戒解雇の理由の一つとされており、就業規則上それ以外に始末書の提出を根拠付けるものは存在しない。原告は、校長のボード書き換え命令に対しては、その日のうちに必要な作業を終えているし、また、産休明け後の勤務態度に、校長から非難されるような行いは全くなかったので、始末書の提出はしないこととし、時間割ボードの駒のうち担任名以外の字の薄くなっている部分をすべて書き終える作業をした同年二月一八日に、その旨を校長に伝えた。ところが、校長及びその息子である副校長の松浦正晃(以下「副校長」という。)は、原告の右のような態度が被告の教職員としてはあるまじきものとして、執拗に原告を呼び出して始末書の提出を迫り、翌二月一九日から当該年度の終りまで、校長らからの始末書の提出強要は殆ど連日のように続き、「始末書が書けないなら辞めてもらう」「命令に従わない人は辞めてもらう。今月一杯で辞めてもらう。」などと繰り返した。
また、同年三月二四日には、全教職員に年度末の特別手当が支給されたが、原告にだけは全く理由もなく右手当が支給されなかった。
このような被告の対応により、原告矢口、森を除く学習会のメンバーであった数名の教員は、昭和五四年三月末で退職してしまい、それ以後の学習会活動は被告が陰に陽に加える圧力により、かつてのような多数の参加者を見ることがなくなった。学習会に対する攻撃・中心的メンバーに対する様々な嫌がらせが続く状況の中で、労働組合結成の必要性を痛感した右三名は、被告における組合結成に先立ち、前記のとおり、昭和五四年四月二五日までに私学労組に個人加盟し、以後、被告における具体的な組合結成の準備を進めるようになった。
(3) 昭和五三年度末の始末書攻撃の後、暫くの間は始末書提出の強要はおさまったが、昭和五四年一〇月一五日に原告が病気で一日欠勤したことがきっかけで再び始末書提出の強要が開始された。
すなわち、同年一一月一日に、校長は、原告に対し「去年の夏にこれから休まないで頑張るといったのに欠勤した。去年の発言を反省しなさい。」と述べて、再び始末書の提出を命じた。この時期には、同じく組合結成の準備をしていた矢口も、校長から「外で活動しないと文書で書くように」と学習会活動を理由とした始末書の提出を強要されるという事件も起きており、校長は、矢口と原告に対して、それぞれ異口同音に、「始末書を書いて気持ち良く来年三月に辞めるか、始末書を書かないで気まずく来年三月で辞めるか、始末書を書いてお願いして来年四月からも続けるか。」のいずれかの道を選ぶように迫った。
そして、同年一二月四日は、午後四時少し前から午後九時近くまで五時間近くにわたり、校長及び副校長は、原告を詰問し、前年度のボード書き換え問題を蒸し返し、更に、被告が本件訴訟において原告の仕事外しの理由として主張するような事実を並べ立て、原告の説明を聞こうともせずに、「始末書だけではすまない」「辞めてもらう」などと述べ、最後に、副校長は原告に対し「従うか、辞めるか、法的手段に訴えるのか、どれか一つを選んで下さい。」と三者択一を迫った。
この後、校長及び副校長は、原告をあからさまに他の教員と差別的に取り扱うようになり、翌一二月五日には、朝の挨拶の際に前日のことで挨拶がないとして、副校長は原告をその場に二時間近く立たせたり、同月一〇日の冬期一時金の支給日には、原告に対してだけは何の理由も告げず一時金の支給をしなかった。なお、正常に勤務を続けながら一時金を全く支給しなかった理由については、被告は現在に至るまで何らの説明もしていないが、全額不支給というのは、査定以前の問題であり、原告に対する嫌がらせ以外の何ものでもない。
その後、昭和五五年一月七日に、原告は、柳澤史子主任らが同席しテープレコーダーまで用意される中で、校長及び副校長から、前記三者択一の回答を強引に求められ、三時間以上にわたって厳しく追及を受けた。そして、原告が、前記三者のどれも選べないと答えると、校長は執拗に「就業規則に服さないということですね」と原告の言質を捉えようとした。これに対し、原告は、「就業規則に従わないのではなく、今度のことは納得できないので始末書は書けない。」と答えたが、校長らは、産休を取った者には特別に仕事を与えて当然であるとか、今後補講はすべて原告が行いなさいなどと述べ、更に、原告の授業を受けている生徒に授業に対する感想文を書かせて提出するよう原告に命じた。その際、副校長は、感想文には原告の授業の良いところと悪いところを必ず書くように指示しており、その意図は、それを原告攻撃の材料としようとする点にあったことは明らかである。
(4) 以上のような経過を経た上で、組合結成直後の昭和五五年三月三一日の職員朝会の席上、校長は、新年度の人事において、原告に対しては一切の仕事を与えないことを明らかにした。これが仕事外しである。何らの予告もない突然の措置に対して、原告が「私は何をしたら良いのでしょうか」と尋ねると、校長は「あなたに仕事はありません」と答えるのみであった。この職員朝会の後に、校長が「いい加減に権利ばかり主張して勤まるものではない」「思想は左右に傾いてはいけない。外の集会や研究会に出たり、活動してはいけない。」などと述べていることからも、原告に対する仕事外しが、原告が産休を二度取るような権利を主張する者であること、学習会活動や組合結成準備活動など被告の認めない行動を取る人物であることを理由とするものであり、実質的には、組合員である原告を被告から排除する意図でした組合差別攻撃であることは明らかである。また、原告は、右仕事外しによって一切の仕事を取り上げられると同時に、職員室内の席も校長の直近の場所に移動させられ、校長に監視される形になった。
右仕事外しが組合差別であったことは、同年五月二七日に被告が若手の女性教師を集めて右問題につき説明会を開催したことがあったが、その際、原告を含めて組合員は全員排除され、この件について組合が抗議すると、副校長は「組合員は必要がないから出席は認めない」と述べたことからも明らかである。
(二) 職員室内隔離、第三職員室隔離及び自宅研修
(1) 原告は、昭和五十五年四月から全く仕事を与えられないまま一年間が経過したが、昭和五六年度においても、原告には一切の仕事が与えられなかった。このような状況のもとで、組合は、原告に対する仕事外し及び組合員に対する賃金差別について、昭和五六年三月二三日付けで、東京都地方労働委員会(以下「都労委」という。)に不当労働行為救済申立ての手続きをとった(都労委昭和五六年(不)第三七号事件)が、被告は、このような組合の第三者機関に対する救済申立て行為に対しても、直ちに様々な嫌がらせを行って対応した。
すなわち、右提訴の翌日、原告が前日都労委に行ったために出勤できなかったので、副校長のところへ欠勤届を持参したところ、副校長は、「受け取れない」といって拒否し、更に、原告が職員朝会に出たいと述べたところ、それを認めず、「上司の命令に従わない者の身分は保証しない」と述べた。翌二五日には、副校長が、都労委の説明を受けて帰校すると直ちに、原告及び西村に対して、「甲野の件では、読書会や組合結成の動きの察知の所の説明が不足しているがどうなのか。」などと詰問し、更に、同日、副校長らは、矢口に対して、救済申立書に「担任クラスの生徒から非行が出たことについて始末書を書かなければ生徒の処分を重くする・・・」と記載した部分を示し、「組合とは関係のないことだ。学校がそのようなことをするはずがない。」などと述べて夕方から夜遅くまで詰問し、夜一〇時頃になって矢口の家族より被告に電話があったため漸く同人が解放されるという具合であった。
また、右都労委提訴の前後から、原告に対する被告の攻撃が強まり、三月二四日から五月二五日にかけて、四回にわたり、校長は、副校長同席の上で、「生徒に一切手を触れるな」とか「生徒にさわるな」といって生徒との接触を禁じ、同年六月一一日には、空き時間で職員室にいた西村(旧姓・八幡)恵子(以下「西村」という。)と原告が話をしていたところ、校長が「勤務時間中に組合員、他の教職員に話し掛けるな」と述べ、副校長も「勤務時間中に他の者の仕事を止めさせるくらいの緊急の私用がある時は俺に断わってからやれ」と述べて、職員室での他の教職員と接触することを禁止した。
更に、昭和五六年度から、原告の席が校長の前から職員室の出入口の近くに他の教職員から一人だけ引き離される形で移動されるに至った。この場所は従来は作業台として使用されていて誰も座席として使用したことのないところであった。これが職員室内隔離である。これは、原告を孤立化させ精神的苦痛を与えることだけを目的としたもので、明らかに不当労働行為救済申立てをしたことに対する嫌がらせであり、また、他の教職員に対する見せしめであって、明らかな不当労働行為である。
(2) 組合の都労委に対する救済申立てを契機に、被告と組合との対立関係は更に強まって行ったが、このような中にあって、執行委員長として組合を代表して発言するなどしていた森は、被告の組合攻撃の矢面に立たされる状況となった。そして、森は、昭和五六年六月に起きた生徒の指導問題に端を発した組合の抗議文についての責任及びささいな成績評価の誤りを理由にして昭和五六年九月五日に懲戒停職処分を受け、更には、同年一一月二〇日に、被告の定める内規に違反した成績評価方法をとったという理由で解雇処分に付された。これらは、組合の執行委員長に加えられた最も激しい組合攻撃であり、強引に処分理由を作り出した上での不当処分・不当解雇に他ならなかった(当庁に森に関する雇用関係不存在確認請求事件<昭和五七年(ワ)第一四九二号>及び賃金請求反訴事件<同五九年(ワ)第一二六〇一号>が係属中)ため、以後、被告には一時期組合の上部団体である私教連をはじめとする様々な団体が、森解雇に対する抗議や要請行動のために来訪した。
被告は、この要請行動に極めて過敏に反応し、この要請行動を組合があるために教育現場が外部の者からかき乱されるものとして捉え、逆に組合員攻撃の材料とした。校長や副校長が、職員会議の場で組合の問題を取り上げ、他の教職員の面前で組合攻撃をするというやり方は、組合結成直後から被告がとった組合弾圧の常套手段であったが、森解雇の前後の時期は、職員会議を利用しての組合攻撃は一段とエスカレートしており、職員会議とは名ばかりで、実態は校長及び副校長が主導する組合糾弾の場であった。組合員は、全教員の面前で呼び捨てにされ、「教壇に立てないと思え」とか「組合員は辞めろ」などという罵声を校長らから浴びせられたが、このような異様な会議の中で、体育科の岩本洋教諭(以下「岩本」という。)は組合員を攻撃する側に立った数少ない教員の一人であった。
(3) 原告に対する仕事外しが二年目を終えようとする昭和五七年三月八日、副校長は、突然、「業務命令として職員室以外の部屋にいることを命令する。あなたが職員室にいると校務運営上に差し障りがある。職員室が混乱する。」といって、原告に対して職員室から第三職員室に移動することを命じた。これが第三職員室隔離である。第三職員室というのは、一階の職員室とは全く離れた二階の事務用品等の物置として使用されていた部屋の一部(縦5.8メートル、横2.2メートル)を衝立、ロッカーとカーテンで仕切り、それまで原告が職員室で使用していた机を運び入れて第三職員室と表示しただけのもので、以後、自宅研修を命じられるまでの四年六か月間、原告は、生徒指導等の具体的な仕事を一切与えられないまま、午前八時二〇分の就業開始時刻までに登校し、先ず校長や副校長に朝の挨拶を済ませ、事務室にある自分の名札を出勤の状態にし、出勤簿に判を押して第三職員室に行き、そこで午後四時五〇分の退勤時刻まで終日過すという生活を強いられるようになった。そこでは、生徒や他の教職員と対話することができないばかりでなく、職員朝会や職員会議などに参加することを拒否され、また、年一回開催される体育祭では原告のみに弁当が支給されなかったり、卒業生用アルバムに写真を載せることを拒否されるなどして、事実上、生徒や職員との接触を全面的に禁止される扱いを受けた。第三職員室に終日いること自体が被告から与えられたすべての仕事であった。
被告は、原告に対して第三職員室に移動することを命じた理由として、原告と他の教職員とのやり取りを挙げているが、その一つとされている昭和五七年二月二四日の事件の経過は、次のとおりであった。
右同日の臨時職員会議でも、前日に被告に来訪した抗議団のことが議題に取り上げられ、校長及び副校長らから組合批判が行われたが、会議が終わった後、会議中も組合に反対する立場で積極的に発言していた前記岩本が、自分の席に着いていた組合員の西村に対し、大声で詰問するように話しかけていたので原告が心配しながら見守っていると、副校長がそばに来て「やられているよ。ほっといていいのか。」と挑発するように声をかけた。そこで、原告は、思わず西村の席まで行き、岩本に対し、一緒に話を聞きたいと申し出たが、同人は、これを拒否し、「帰ってくれ」と強い調子でいいながら原告の肩を押したため、原告はその場に転びかけた。原告が岩本の乱暴な態度に、思わず「暴力はよして欲しい」といったところ、岩本は、更に逆上し、「暴力とはこういうものだ」と拳を振り上げ原告に殴りかかろうとしたが、そばで成行きを見ていた数名の教員から羽交い締めにされて制止されたというものである。
右事実関係からすれば、事件の結果を原告の責任であるとすることは明らかに間違いであるし、また、その原因の背景には、被告の組合敵視政策とこれに同調する一部教員の原告ら組合員に対する強圧的な態度があったことは明らかである。
また、被告が原告に対して第三職員室に移動することを命じたもう一つの理由とする同年三月六日の出来事は、次のとおりである。
当日は土曜日であり、私教連が被告に対する抗議のビラ撒きを最寄りの駅頭で行っていたが、これを知った副校長が、生徒がビラを受け取らないように指導するよう、原告を除く全教員(他の組合員も含む。)に業務命令を出していた。この指導から帰ってきた体育科の田中幸雄教諭(以下「田中」という。)が、職員室に残っていた原告に対し、生徒にビラを撒かないで欲しいといってきたので、原告は、既に生徒が下校した後の時間帯であることや、生徒に渡すためにやっているのではない旨説明していた。すると、そこに副校長がやってきて、原告に対し、顔を向うに向けていろとか、部屋から出て行けと怒鳴ったというのが事実である。
原告に対する第三職員室隔離は、以上のような状況の中でされたもので、被告がその理由とする事件も原告の責任でないことは明らかであり、しかも、事件の相手方とされる岩本、田中のいずれもが退職して原因が消滅した後も継続されていることからしても、被告による第三職員室への隔離は、組合員である原告に精神的苦痛を与えて退職せざるを得ないようにし、被告から排除することを意図してされたものであり、不当労働行為に該当することは明らかである。
(4) 副校長は、昭和六一年八月三〇日、それまで第三職員室に隔離していた原告に対し、業務命令として自宅研修を命じた。もっとも、自宅研修といっても、何らの課題や用務をも与えられず、内容は第三職員室で行ってきたことと同じもので、勤務時間帯は自宅にいることを拘束され、被告の許可を受けることなしに外出することを禁止されるという自宅軟禁そのものであり、以後、学内への立入りを禁止するという命令でもあった。団体交渉等の組合の用事で学校に立入ることも、就業時間中は、許されていない。
したがって、自宅研修は、原告を完全に被告から排除すると共に、就業時間中は自宅から出ることを禁じて行動の自由を奪うことによって、原告に精神的な苦痛を与えることを目的としたものであり、第三職員室隔離と同様、原告の組合活動を理由とする差別的取扱いとして不当労働行為に該当することは明らかである。
(三) 以上のように、被告が原告に対して行った仕事外し、職員室内隔離、第三職員室隔離及び自宅研修の一連の措置は、原告の組合活動を嫌悪してされた点において、労働組合法七条一号、三号に該当する不当労働行為であるから、結局、故意による不法行為として被告はそれにより原告が被った損害を賠償する義務があるというべきである。
2 違法な業務命令権の行使
(一) 教育現場で要請される業務命令権の内容
使用者が労働者に対して労働契約に基づいて命じ得る業務命令の内容は、労働契約の目的、内容をもとに決まるものである。使用者は、労働者に対してどのような業務でも命じ得るものではなく、労働者の人格、権利を不当に侵害することのない合理的と認められる範囲のものでなければならないことはいうまでもない。そして、その合理性の判断については、業務の内容、必要性の程度、それによって労働者が被る不利益の程度などと共に、その業務命令が発せられた目的、経緯なども総合的に考慮して決せられる必要がある。
原告は、昭和五三年に被告の設置する高等学校の専任教諭として採用されたのであり、労働契約の中心が、その教師として生徒を指導・教育することにあることは明らかである。
(二) 本件の業務命令の内容とその違法
被告が原告に対して行った仕事外し、その上での第三職員室への隔離及び自宅研修は、いずれも、原告から教師としての業務すべてを剥奪するものであって、原告を専任教諭として採用した労働契約の目的、内容にも反するものであり、右各命令が原告の名誉、人格を著しく侵害するものであることは明らかである。
したがって、右各命令は、被告の業務命令権の範囲を逸脱し、業務命令権を濫用したものであって違法であり、不法行為に該当する。それ故、仮に不当労働行為による不法行為責任が認められないとしても、被告は原告に対し、仕事外し、職員室内隔離、第三職員室隔離及びその後の自宅研修による自宅軟禁により原告が被った損害を賠償すべき責任がある。
3 損害
(一) 人格的利益、行為の自由の利益の侵害ないし人格権、自由権及び名誉の侵害
被告による仕事外し、職員室内隔離、第三職員室内隔離は、原告を教育業務、教育間接業務、学校行事、校務分掌等に一切参加させないことにより、原告の教員生活上なし得べき諸行為の自由を剥奪、制限し、それによって原告の人格的利益、行為の自由の利益の侵害ないし人格権、自由権及び名誉を侵害し、よって原告に多大なる精神的苦痛を与えた。教師にとって授業は命といって良いものである。生徒と同じ建物の中で一日中過ごしながら、授業をすることもできず、更に生徒との接触すら禁止されることは、原告にとって、言葉では言い尽くせない屈辱であり、苦痛である。ことに、第三職員室隔離は、原告が被告の現職の教師でありながら、一人だけ見せしめ的に終日拘束され、監禁同様の非人間的生活を四年半にわたって継続されるというものであって、それによる原告の名誉の侵害は著しいものがあり、原告の受けた精神的苦痛は著しく大きい。
更に、自宅研修による自宅軟禁は、それによって、原告は被告の教師でありながら、登校を禁止され、他の教師や生徒との接触を完全に遮断され、事実上解雇と同じ状態に置かれているものであって、原告の人格的利益ないし行動の自由の利益の侵害であるのみならず、人格権、自由権ないし名誉の著しい侵害であり、それによって原告が受けた精神的苦痛は甚大である。
(二) 組合活動家としてなし得べき諸業務や行動の自由の利益ないし権利の侵害
被告による第三職員室隔離及び自宅研修による自宅軟禁により、原告は組合員と接触することを禁止され、組合委員長として組合機関会議の開催・参加、組合役員選出にかかわる選挙活動、組合方針の伝達・情宣活動、組合方針形成のための討論・アピール活動等の諸活動の自由利益や権利を著しく侵害され、活動家としての精神的苦痛を与えられた。
(三) 不当労働行為に関する裁判、審理及びそのための準備活動の自由の利益ないし権利の侵害
原告及び組合は、本件訴訟の他、組合員森の雇用関係不存在確認請求及び同反訴請求事件並びに都労委に係属している森解雇及び原告の不利益扱い、賃金差別などの各種不当労働行為救済申立て事件(都労委昭和五六年(不)第三七号、同年(不)第一三三号、同年(不)第一四八号、昭和五七年(不)第一〇五号各事件)を抱えており、原告は組合の委員長としてこれらを指導・実践する職務上の責務を負っているが、被告の原告に対する行動規制特に自宅軟禁によって原則として自宅を離れることを禁止されているため、右委員長の職務遂行が著しく困難となっており、そのための精神的苦痛は甚大なものがある。
4 慰謝料請求権
以上の原告の精神的苦痛は、原告の職業、社会的地位、被告の財政状況等を総合的に勘案すると、これを慰謝すべき金額は金一〇〇〇万円を下らないものというべきである。
よって、原告は、被告に対し、民法七〇九条、七一〇条、七一五条に基づき、金一〇〇〇万円と、これに対する内金五〇〇万円については訴状送達の日の翌日である昭和六一年一〇月五日から、内金五〇〇万円については訴変更申立て書送達の日の翌日である平成二年四月一三日から、それぞれ支払済みに至るまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
三被告の主張
1 本件は、私立学校における教諭の適格性をめぐる事案である。私立学校にはそれぞれ独自の建学の趣旨なり精神があり、被告にも被告なりの精神がある。被告の校是は「知行合一」であり、勉学と勤労を愛し、責任を重んじることなどを教育方針としている。殊に被告は、幼稚園、中学校、高等学校及び短期大学を通じて女子教育を目的とする教育機関であり、被告に勤務して女子教育に当たる教諭には、右建学の精神に基づき、被告における規律に服して誠実に労務に従事することが要請されている。被告におけるかかる規律は、被告に勤務する教諭の就業を規律するもので、これに違背し規律に服することができない教諭に対しては、その就業を禁止し或いは雇用契約関係を破棄することも認められる内部規範である。
原告は、以下に述べるように、被告のかかる内部規範に明らかに違背し、かつ、反省の意思を示さなかったばかりか、以後規律には従わないとの意思を明確に表示した。被告としては、かかる教諭に大切な生徒を任せるわけにはいかないので、やむなくその就業を禁止したものであって、何ら違法な行為はしていない。本来であれば、原告との間の雇用関係を破棄すべきであったかも知れないが、本件が都労委の審問手続に係属することとなったことから、それ以上の措置を控えたまま現在に至っているにすぎない。
原告は、被告の原告に対する措置が不当労働行為であるとして種々主張するが、原告らが所属する組合は、被告が原告を授業・校務分掌から外すことにした後に結成されたものであり、組合ないし組合員の活動と原告の本件問題は何らの関連性もないものである。
2 原告に対する仕事外しの経緯
(一) 原告からの産休の申出と被告の対応及び補講問題
昭和五三年三月下旬に、原告から、同年一一月ころ出産予定なので宜しくとの申し出があった。被告は、その当時、既に新年度の担任割当表や時間割表の概略を編成済であったが、原告からの申し出を配慮して担任割当表などを再編成することとし、原告について、新年度の当初からクラス担任を外して学年付きフリーの立場で勤務させ、出産の近づいた同年九月から始まる二学期からは、持ち時間の授業も外してその負担を軽減する措置を講じ、これをカバーするために非常勤講師を新たに採用して生徒への授業に支障を来さないように対処した。
原告は、同年一一月三〇日、産休が明けて登校してきたが、被告が前述のような配慮をしていたので、産休明け後約一か月間は授業をしなくても良い状態にあった。
ところで、被告においては、欠勤者や出張者がある場合、他の教諭が授業を代講(補講)するようにしているが、補講の担当教諭を決めるのは教務係の仕事であった。当時原告は、計画管理係に所属していたが、計画管理係というのは、年度の当初において担任割当表や時間割表などを作成してしまうと余り仕事もない係であったため、計画管理係と教務係とはほぼ同じ教諭に担当させており、原告もそれまで長い間教務係として補講の担当教諭を割り当てる仕事をしてきたため、当該年度においても補講の担当教諭を決める仕事をしていた。
前述のごとく、産休明けで登校してきた原告には、クラス担任はもとより授業担当もなかったのであるから、補講を割り当てなければならない場合には、クラス担任や授業を持っている他の教諭との関係から、自ら出向いて補講を担当するのが常識的な対応であったにもかかわらず、漠然と他の教諭を当てた上、他の教諭が忙しく仕事をしている場所で、担任がなくて楽だなどと公言してはばからず、このために他の一般教諭から苦情が出る始末であった。
(二) 時間割ボード書直し問題
昭和五四年二月一四日、職員室の時間割ボードの字が薄くなっていることに気づいた校長は、その担当である原告に薄くなっている箇所の書き直しを命じたところ、原告は何故かこれに従おうとはしなかった。後日原告が説明したところによると、原告が産休を取ったために特別にその仕事を与えられたものと思い、自分だけにかかる仕事を命令されることはないと考え、業務命令に従わなかったということであるが、校長は原告の産休に触れるような発言はしていない。
そこで、校長は、二月一六日、原告に対し、速やかに命じられた業務を行うよう再度指示すると共に、業務命令違反として始末書の提出を命じたところ、原告は、二月一八日に至って漸く薄くなった部分の書き直しをした。原告は、最初に命じられた二月一四日に部分的に書き直しをしたかのように主張しているが、事実に反する。
このような原告の就業態度は、被告の教諭としては極めて問題であり、その後再三にわたって被告における勤務のあり方について指導したが、原告はこれを容易に聞き入れようとはしなかった。
(三) 副校長に対する原告の違約
昭和五四年三月三一日、副校長が原告に対して被告の教諭としての自覚を求めるための話をしている中で、原告は副校長に対し、ボード問題に関する業務命令違反についての始末書を提出するかどうかの回答を二日後の朝にすると約束した。
しかるに、原告は、約束の当日になっても、副校長に対して何らの回答をしなかったばかりか、校内で副校長に会ってもこれを無視する態度に出、当該約束は不履行のままになった。更に、原告は、その後における副校長との話し合いの過程で、「始末書の件については聞いておくが、これは業務命令ではないから提出しない。」と発言するに至り、反省の態度は全く認められなかった。
(四) 原告の勤務態度の不良
昭和五四年度になり、被告は原告に対し、教諭として通常の勤務に付けると共に、引き続き説得に努め、被告における教諭としての自覚を求めることとした。しかしながら、原告の勤務振りは、次に述べるように、極めて好ましくないものであった。
(1) 昭和五四年七月、バスケット部員による不祥事件が起こった際、当該クラブの顧問や各クラス担任の教諭からは、「指導が行き届かず責任を感じている。今後は十分に指導監督する。」という趣旨の書面提出が自発的にされたが、一人原告だけは「生徒が悪くなるのは担任の責任ではない」などと責任回避の発言をしてはばからなかった。
(2) 同年一〇月八日、原告が生徒指導上のことで校長に報告に来た際、原告の口から生徒が校則に違反したときは誓約書を出させるよう指導しているとの発言があったため、校長が同人に対して、生徒に対しても学則に違反すれば誓約書を出させて戒めるというのであれば原告も考えるべきではないのかと諭したところ、「生徒と先生とは違う」と開き直り、「校長のいっていることは聞いておく」旨いい捨てて退出してしまった。
(3) 同年一〇月、校長が校内巡視をした際、教壇上で椅子に腰掛けたまま授業をしている教諭を三名ほど見かけたが、原告もその一人であった。被告においては、生徒が授業内容を理解しやすいように、教諭は立って授業をするように常日頃から指導していたため、校長は、職員室において個人名は挙げないまま教諭全員に対してその旨の注意を与えた。該当する教諭のうち原告以外の教諭は黙って注意を聞いていたのであるが、原告だけが「ちょっとだけですよ」と反抗する態度を示し、反省している様子は全く認められなかった。
(4) 被告においては、クラブ活動などのためにテープレコーダーなどの備品を使用する場合には、視聴覚係の担任主任の許可を受けた上で使用し、使用終了後は所定の保管場所に返還することになっていたところ、同年一一月二二日、演劇部の顧問であった原告は、そのクラブ活動のために使用するテープレコーダーを視聴覚係の担当主任に無断で持ち出した上、クラブ活動が終了する以前に生徒に対して何らの指示・説明をしないまま帰宅してしまった。そのため、クラブ活動が終了してテープレコーダーを返しに来た生徒が、原告の机の上に置いたまま帰ろうとしたので、たまたま居合せた他の教諭が被告における備品の取扱い方を説明して所定の保管場所に戻させたが、これは教諭として責任を自覚していない原告の勤務振りを示す一つの事例であった。
(5) 被告において、それぞれの教諭が担当する清掃区域が定められており、当該清掃区域においてガラスの破損があった場合には、定められた期限内に係の教諭まで破損届を提出しなければならないことになっていたところ、昭和五四年度の三学期に原告担当の清掃区域でガラスの破損があった。当時原告は三年生の担任であったから、本来ならばその破損届を三月五日の卒業式の日までに係の教諭へ提出すべきであり、遅くとも昭和五四年度が終了する同月二五日までには届をしておくべきであったにもかかわらず、原告が破損届を提出したのは同月三一日になってからであった。かかる破損届の提出が遅れたこともさることながら、原告は係の担当教諭が不在のために提出が遅れたものであるとして、自らの責任を他の教諭に転嫁するような言い訳をしてきた。しかし、係の担当教諭は、同年三月二五日を持って退職する予定であったところから、それまでの職員朝会においてガラスの破損がある場合には速やかに破損届を提出してくれるよう何度となく要請しており、当該教諭が不在だったから提出が遅れたなどとの言い訳は全く理由のないもので、かかる原告の態度は、教諭としてのモラルに著しく悖るものであった。
(五) 昭和五四年末の話合い
昭和五四年一二月四日、被告は、従来の経過を踏まえ、今後果たして原告が被告の教諭として誠実に勤務してくれるかどうか極めて疑問であり、また、賞与支給の時期(一二月一〇日)でもあったため、同人の今後の勤務振りについての話し合いの機会を持ち、時間割ボード書き直しの件について反省の上で始末書を提出し、被告の規律に服して誠実に勤務するよう促した。被告としては、原告がかかる被告からの指導に従い、従来からの勤務振りを改めてくれるということであれば、当該問題はすべて解決したものとして対処する考えであった。
しかしながら、原告は、かかる被告からの説得に全く耳を傾けようとしなかったばかりか、被告からの就業上の指示に今後誠実に従うかどうかとの問いかけに対して、①就業規則に従うか、②就業規則に従わないであくまで反対するか、③法的手段に訴えるか、という三者択一しかなく、どの方針を採るのかの態度表明を同月八日までに行うという思いもかけぬ構えた発言をするに至った。その後、原告は、予告した一二月八日に至り、右態度表明を翌五五年一月七日まで待ってもらいたいといってきた。
(六) 原告からの態度表明
昭和五五年一月七日、原告は被告に対して、被告からの一連の指示には絶対に従えない、したがって、始末書の提出にも応じられないという信じられないような態度を表明してきた。始末書の提出もさることながら、被告の就業上の指示に従えないとの点は極めて重大であり、被告は同日この点を質すべく原告と話し合ったが、原告は終始頑な態度を崩さず、ついに誠意ある回答を得ることはできなかった。
(七) 感想文提出の約束違反
被告としては、これまで一年近くにわたって、原告との話し合い説得を続けてきたにもかかわらず、ついに同人の理解を得るところとはならず、担任としての無責任な発言や、クラブ活動指導上の問題をはじめとして、就業上の規律に対する考え方など、余りにも逸脱した原告の言動に照らして、被告の教諭としての適格性に重大な疑問を抱かざるを得なかった。
そこで、被告は、原告に対する処置を決定する前に、原告の授業を受けている生徒達が原告をどのように見ているのかをも判断の資料とすべきものと考え、学年末に同人の授業内容に対する感想文を生徒に書かせた上、これを被告に提出することについて原告と話し合った。通常、生徒が担当教諭の評価にわたる文章を書く場合、相手が自らの成績評価を行う教諭であるところから、よほど例外的な場合でない限り、教諭の気に障るようなことは書かないものである。原告の場合には、同人の授業について良い点と悪い点とを書かせるように話したのであるが、そのような場合においても、悪い点はかなり控え目に書くのが普通である。したがって、被告が原告に対して生徒に感想文を書かせてはと話したのは、情状酌量の余地がなくなった原告の最後の救済策として考えられたことであった。これに対して原告の了解が得られたため、各クラスの最終授業日に生徒の感想文を提出するように指示し、原告もこれを了承した。
しかるに、原告は、各クラスの最終授業日はおろか、昭和五四年度の終了日である三月二五日になっても当該感想文の提出をしなかったばかりか、約束をした副校長に対して何らの説明にも来ようとせず、被告の業務命令をまたしても無視する態度に出た。原告は、本訴において、かつて生徒からもらったという原告宛てのノートを提出しているが、副校長に対してもかかる感想文を提出すべきだったのである。
(八) 原告に対する仕事外し
被告からの業務指示には従えないなどという常軌を逸した暴言を含め、過去一年以上に及ぶ原告との話し合いの結果と最終的な救済策である感想文提出の業務命令違反を前にして、被告としては、今後とも原告を従来通りの勤務に従事させることには重大な危惧を抱かざるを得なかった。特に、教育は絶対にやり直しが利かない性格のものであり、教育を受ける生徒の立場になって考えれば、原告のごとき教諭としての適格性を著しく欠く教諭に教育の現場は到底任せられないものと判断し、被告は、新年度である昭和五五年度からは原告を授業並びに担任から外すことにしたが、父兄から大切な生徒を預かる被告としては、誠にやむを得ない措置というべきである。
原告らが組合を結成したことを被告に通告したのは、昭和五五年四月七日であり、原告に対する仕事外しの後であるから、組合ないし組合員の活動と仕事外しとは何らの関連性もないものである。
3 原告を第三職員室に移した経緯
(一) 職員室内でのトラブル
昭和五五年度から原告を授業・担任から外したのであるが、同年度中における原告の職員室内での言動については、他の教諭間の会話をいちいちメモしたり、職員室内で居眠りをしたり、或いは他の教諭との間でもめ事を起こすなど、原告の言動にはとかく他の教諭からのひんしゅくを買うことが多かった。職員室内には、他の教諭ばかりでなく、常時生徒も出入りするために、原告のかかる言動は生徒の教育上からも好ましいことではなく、また、他の教諭とのトラブルを少しでも回避するため、翌五六年度から原告の席を他の教諭から離れた位置に移すことにした。職員室内隔離というものがこれであるが、被告が原告と他の教職員や生徒との会話を禁ずるなどの差別的扱いをしたことはない。
(二) 二月二四日のトラブル
昭和五七年二月に至り、森教諭の解雇をめぐって私教連傘下の組合員らが連日のように多数被告に押し掛け、、校務に支障を来すことがしばしばあった。その際、被告の事務所勤務の女子職員に対して暴言が繰り返され、これが日を追うごとにひどくなり、挙句の果ては、女子職員に対して、「おまえはオームだ」とか「お嫁にいけないぞ」などと侮辱的な言辞を吐くまでになった。女子職員の殆どは被告の卒業生であったため、このような暴言を聞き及んだ他の教職員らが憤慨し、被告の卒業生でもあり同僚でもある女子職員が罵倒されるような事態を招いた原告らに対する非難の声が日を追うごとに高くなっていった。
このような状況の中で開かれた二月二四日の職員会議では、女子職員に対する暴言をはじめ、昭和五六年一二月に配布されたビラの中に「校長が黒だといえば、たとえ白でも黒だという学園」との記事があることをめぐって、多くの教諭から次々と同僚を侮辱するような記事を憤る声と原告らに釈明を求める意見が述べられ、また、職員会議の直前に出されたビラに「甲野は産休を取ったので仕事を取り上げられた」などという記載があり、この件についても教職員の間では、原告が授業・担任を外された経過や事情が周知のことであったため、事実無根の悪質な記事であるとして非難の声が相次いだ。
職員会議における一般の教諭からの釈明や反省を求める発言に対して、原告らは、言を左右にして釈明に応じようとせず誠意のない態度に終始したため、一部の教諭からは、このようなことでは到底一緒に仕事はできないので原告の席を外に出してもらいたいとの強硬意見さえ出される状況となった。
この職員会議が終わった後、ある男性教諭が西村教諭と話し合っていたところ、突然離れた席から原告が近寄ってきて両名の間に割って入り、両名の話を中断したため、当該男性教諭が原告に対して、西村教諭と話しをしているのであるから口を出さずに離れていて欲しいと頼んだが、原告はこれに応じず、執拗にその場を離れようとはしなかった。そこで、右男性教諭が強引に割り込もうとする原告を阻止しようとしたところ、同教諭の手が原告の肩付近を押す形になったが、その際、原告は突然大声を張り上げて「暴力を振るわないで下さい」と叫んだ。周囲にいてその一部始終を見ていた他の教諭達は、余りのことに唖然とし、やがて暴言ともいえる原告の発言に対して非難の声が沸き上がり、このような原告と一緒に仕事はできないとの声が多く聞こえた。そこで、被告はその後原告に対し、他の教職員を刺激して無用のトラブルを起こさないように注意を与えたが、原告はこれを無視する態度を示した。
(三) 三月六日のトラブル
同年三月六日、私教連傘下の組合員らが最寄駅の駅頭で被告を非難するビラを配布したが、同人達が生徒にビラを配布していること及び一部の生徒が泣きながら組合員らに抗議しているという知らせが学園に入り、その場にいた全員の教諭が急遽現場に駆け付け、事なきを得たという事件が発生したが、次々と学園に戻って来る教諭の間に、教育的配慮に欠けるこのような事態に対して非難の声が相次いだ。
このような状況の中で、職員室において、原告と戻ってきたある教諭との間で、まさに掴みかからんばかりの勢いで大声でいい争う事件が発生したが、この事件は、たまたま近くを通りかかった副校長が両名の間に割って入り、事なきを得た。
(四) 第三職員室への移席
以上のように、原告と他の教諭との間において、短期間の間に二度までも暴力沙汰寸前のトラブルが相次ぐ事態を前に、被告としては、原告と他の教職員との険悪な状況からして、今後一層重大な事態に発展し、被告の業務が著しく阻害されることを懸念すると共に、かねてから多くの教諭から強い要望も出されていたところから、不測の事態を未然に回避するために、原告の席を第三職員室に移すこととし、三月六日に原告にその旨申し渡した。
以上述べたように、原告の席を第三職員室に移さざるを得なかったのは、すべて原告の規律違反及び他の教職員に対する非協調的言動に起因するものであり、従前幼稚園の職員室として使用していた第三職員室を準備してまでかかる処置をとらざるを得なかった被告の対応を不当視されるいわれはない。
4 自宅研修を命じた経緯
その後、原告からは、事態改善の兆候が全く見られないまま日時が経過し、一方、都労委に係属した事件も近い将来には結論が出される見通しも持てなかったところから、被告は、原告に対し、自宅研修を命じることとし、昭和六一年八月三〇日、原告に対してその旨申し伝え、現在に至っている。
5 原告は、被告の原告に対する一連の措置が不当労働行為であるとして種々主張している。しかし、いわゆる甲野問題は、昭和五四年二月一四日の時間割ボードの書き換え問題に端を発したものであり、その後の約一年間に及ぶ説得にも拘らず、誠に遺憾ながら同人の理解が得られず、被告からの就業上の指示には従えないという驚くべき意思表明がされ、かつ、原告も約束した感想文の提出指示にも違背したため、授業・校務分掌から外すこととしたもので、原告らが所属する組合は、その後である昭和五五年四月に結成されたものであるから、甲野問題と組合ないし組合員の活動とは何らの関連性もないことは明らかである。
第三争点に対する判断
一被告の原告に対する一連の措置の違法性
被告が原告に対して行った仕事外し、職員室内隔離、第三職員室隔離及び自宅研修の各措置の違法性の有無について判断するに、一般に、使用者は、労働契約或いはその内容となっている就業規則によって定められた範囲内において、労働者が供給すべき労務の内容及び供給の時間・場所等を裁量により決定し、業務命令によってこれを指示することができるが、右範囲を超えて指示することはできず、これを超えて指示した場合には、その業務命令は無効であり、また、外形的には業務命令により指示できる事項であると認められる場合でも、それが主観的に不当な動機・目的で発せられ或いはその結果が労働者に対して通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を与える場合には、その業務命令は業務命令権の濫用として無効であり、かつ、そのような業務命令を発することは違法であるというべきである。
これを本件についてみると、原告は被告の設置する高等学校の専任教諭として雇用されたのであるから、労働契約に基づいて原告が被告に供給すべき労務は、高等学校の教師としてその生徒を教育・指導することが中心となることはいうまでもなく、これに対応して、被告は、右労務の提供を受ける権利を有すると共に、原告に対して具体的にいかなる労務を割り当て、何時、どこで右労務を提供させるかは、被告が労働契約或いはその内容となっている就業規則の定めるところに従って裁量により決定し得るものということができる。したがって、本件における一連の措置が違法であるか否かを判断するためには、それが、原告と被告との間の労働契約及びその内容となっている就業規則によって定められた範囲内のものであるか否か、或いは原告に対して通常甘受すべき程度を超える著しい不利益を負わせるものであるか否かを検討しなければならない。
以上を前提にして検討するに、原告は、被告の一連の措置により、昭和五五年四月以降、クラス担任は勿論のこと、授業及び校務分掌の一切の仕事から外され、被告に出勤しても机に座っている以外に何らの仕事も与えられず、昭和五六年四月からは職員室内隔離、昭和五七年三月八日からは第三職員室隔離、更に、昭和六一年八月からは自宅研修命令を受けて自宅にいることを余儀なくされているもので、仕事外しから本訴の口頭弁論終結時まで一一年以上の長期間を経過していることは、前記「争いのない事実等」に説示したところから明らかである。もとより、原告に対してどのような業務を担当させるか、また、どこで就業させるかは、使用者たる被告が裁量によって決定し、業務命令により指示し得る事項ではあるが、右のように、教師として労働契約を締結した原告に対し、長期間にわたって授業及び校務分掌を含む一切の仕事を与えず、しかも、一定の時間に出勤して勤務時間中一定の場所にいることを命ずることは、生徒の指導・教育という労働契約に基づいて原告が供給すべき中心的な労務とは相容れないものであるから、特に原告の同意があるとか又は就業規則に定めがあるというものでない以上、一般的にも無理からぬと認められるような特別の事情がない限り、それ自体が原告に対して通常甘受すべき程度を超える著しい精神的苦痛を与えるものとして、業務命令権の範囲を逸脱し、違法であるというべきである。そして、本件においては、原告の同意がないことは明らかであり、また、被告の就業規則<書証番号略>によると、「被告は、懲戒処分に該当する行為をしたものに対しては必要に応じて懲戒処分を決定する以前に於いても本人の就業を差し止めることがある。」と定められていることが認められるが、本件における一連の措置が右規定に従ってされたものでないことは、それが懲戒処分を決定する前の応急的なものとしてされたものでないことによって明らかである(副校長の松浦は、都労委における審問調書<書証番号略>では、仕事外しが右規定によってされたかのように述べていたが、当法廷における証人尋問では、これを否定している。)。右就業規則の他に、原告から教師としての授業や校務分掌等の業務を取り上げることができる旨を定めた規定はない。
したがって、本件の問題の核心は、被告による一連の措置について一般的にも無理からぬと認められるような特別の事情があるか否かに帰着するところ、被告は、この点につき種々の主張をするので、以下、その具体的な内容及びそれが一連の措置を正当化する理由となり得るものか否かを検討する。
二仕事外しについて
被告は、原告からそれまで担当させていたクラス担任、授業その他の校務分掌等の一切の仕事を取り上げたのは、原告には教師としての適格性が著しく欠けており、教育の現場を任せることができなかったからである旨主張するので、この点につき判断する。
1 仕事外しに至る経過
<書証番号略>、証人矢口由紀子、同本田ひろみの各証言及び原告本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 産休明け後の問題
(1) 原告は、被告に勤務するようになってから、昭和五一年九月一日から一一月二六日までと、昭和五三年九月二日から一一月二九日までの二回にわたって産休を取得したが、被告においては、それまで専任教諭として勤務を続けながら二回の産休を取得した者は他におらず、原告が初めての事例であった。
原告は、昭和五三年三月二一日、夫と二人で校長の自宅を訪れ、一〇月に第二子出産のため産休を取得したいので宜しくとの挨拶をすると共に、翌二二日に被告にその旨申し出た。そこで被告は、原告の申し出を配慮し、原告については昭和五三年度はクラス担任を外し、学年付きフリーの立場で勤務させることとし、二学期が始まる九月からは持ち時間の授業も外す処置を講じたので、原告が産休明けで出勤しても約一か月間は授業をしなくともよい状態になっていた(この点は、原告と被告との間で争いがない。)。なお、被告の就業規則には、「学園は、六週間以内に出産予定の女子職員に対して請求により休養を与える。」「学園は、女子職員が出産したときは六週間の休養を与える。」と規定されている。
原告は、出産予定日である一〇月一三日の六週間前である九月二日から産前の休暇に入り、予定日より五日遅れた一〇月一八日に第二子を出産し、産後は六週間丁度の休暇を取得した後、一一月三〇日から再び出勤した。
(2) 原告は、産休明けの一一月三〇日に出勤して、校長に挨拶に行ったが、その際、校長から、産休の取り方に関して、「産休中の同年一一月二四日に出産届等の書類を被告に提出しに来た際の原告の態度には腰の低さが欠けていた」「一一月二四日に元気な様子を見せておきながら、そのまま六週間全部休んだのは良くない」「公立学校の先生でも同じ学校で二度産休を取ったりしない」などといわれた。
なお、原告は、被告に採用されてから二回目の産休明けまでの間に、懲戒処分を受けたことは勿論、勤務態度について特に注意を受けたとか或いは授業内容について父母等から被告に苦情の申入れがあったということはなかった(このことは、証人松浦正晃の証言によっても裏付けられる。)。
(3) 原告が産休明けで出勤するようになってから、二学期中に授業のあった日は、一一月三〇日、一二月一日、同月二日、同月四日、同月五日の五日間であったが、その間、担当教諭の欠勤等で補講の必要があったのは、一一月三〇日と一二月二日の合計五時間であり、そのうち三時間は、原告が補講を担当しており、補講が必要な残る二時間のうち一時間は、原告は保健室で養護教諭としての仕事に就いた。被告において補講の担当者をきめるのは教務部の補教係であって、昭和五三年度は中村、木野、山崎の各教諭がその係で中村が主任であり、原告は、係ではなかったが、昭和四九年度から同五二年度まで係をしたことがあったことから、産休明け後も右係の仕事を手伝っていた。
ところで、被告は、産休明け後の約一か月間における原告の勤務態度として、原告はクラス担任や授業を持っていなかったのであるから、補講を割り当てる場合には自分が出向くべきであったにもかかわらず、漫然と他の教諭を当てた上、他の教諭が忙しく仕事をしている場所で担任がなくて楽だなどと公言してはばからなかったので、このような原告の態度に他の一般教諭から苦情が出る始末であった旨を主張する。
そして、柳澤史子の陳述書<書証番号略>には、原告が学年付きをしていた高校三年生の学年主任である者の陳述として、右主張に沿う部分がある。すなわち、右陳述書には、「甲野教諭の補講のつけ方については、あまり評判が良くありませんでした。甲野教諭自身空き時間が多いのに、たまたま一時間空いている先生が居るとその先生に割り当てる。一度注意した方が良いのではないかという苦情を時々耳にしていました。昭和五三年の一二月の初め頃だったと思いますが、補教係の中村先生から、甲野教諭がまたやっているねとの指摘を受け、職員室の黒板を見ますと、その日は数時間補講が必要な時間があり、そのうちの一時間だけを甲野教諭が出て、あとの数時間を他の先生に割り当ててありました。中村先生の指摘は、クラス担任も授業もないのだから甲野自身が補講に出るべきであり、忙しい他の先生方に割り当てるのはおかしいという意味だったのですが、私もその通りだと思いました。甲野教諭の補講割り当てについては、このような苦情をたびたび聞いていましたので、私はその頃何の機会であったかは忘れましたが校長にも話した記憶があります。」との記載がある。しかし、右陳述書の記載は、相当の長期間にわたって原告の補講割り当ての実情をフォローしたかのような表現となっているが、原告が産休明けで出勤してから二学期中に授業のあったのは僅か五日間であって、補講が必要な一一月三〇日と一二月二日の五時間のうちの三時間は原告において補講を担当した(補講が必要な残る二時間のうちの一時間は、原告は保健室で仕事をした。)ことは、前記のとおりである上、証人松浦正晃の証言によると、原告が産休明けで出勤した最初の日である一一月三〇日は原告ではなく補教係の木野が割当てを行ったというのであるから、産休明け後に原告が行った補講の割当てに関する証拠としては、いかにも誇張があって正確ではないといわざるを得ないし(昭和四九年度から同五二年度までに原告が行った補講の割当てを含むものとしても、その期間に特に原告の空き時間が多かったとか又は割当ての仕方が適切でなかったことも認められないので、誇張があることに変りがない。)、補教係の主任である中村が手伝いをしている原告について右記載のようなことをいうのは、主任の立場にある者の発言として不自然であり、また、補講割当ての実態とも相容れないから、柳澤の右陳述書の記載は直ちには信用することができない。
また、証人松浦正晃の証言及び同人の陳述書<書証番号略>、審問調書<書証番号略>中にも、被告の主張に沿う部分がある。そのうち、右陳述書の記載は、「原告は、担当する授業がなく、一日中空いていたのですから、他の教諭を当てることなく自ら出向いて補講をするのが同僚教諭に対する当然の処置でありましたところ、漫然と他の教諭をこれに当てたうえ、他の教諭が忙しく仕事をしている場所で、担任がなくて楽だなどと公言してはばからないという有様でした。このような原告の態度に他の一般教諭から苦情が出てくるのは自然のなりゆきでした。」というもので(審問調書も同趣旨のものである。)、右柳澤の陳述書以上に誇張した内容のものであり(松浦正晃の<書証番号略>の陳述書の記載は、「自分は全く授業がなく、一日中空いているのにも拘わらず、当然の如く、他の先生の授業の空き時間に補講をあてて何ら憚らぬ有様だったのです。自分が全然授業がないのであれば、進んで補講に行くべきであり、自分が処理できない場合に初めて他の先生方に援助を求めるというのが同僚教諭に対する当然の処置だと思うのですが、自らは補講に出ることもなく、他の教諭が忙しく仕事をしている場所で、担任がなくて楽だと公言している状況でした。このような甲野教諭の態度に対して当然のことながら他の教諭から苦情が出、主任を通じて校長にも報告されました。」というもので、更に誇張したものとなっている。)、また、証言の中では、一一月三〇日の補講について、原告ではなく補教係の木野が割当てを行ったものであるとして被告の主張とは矛盾することを述べ、しかも、原告が自ら進んでではなく割り当てられて補講に出たことまでをも問題とするような趣旨を述べるなど、かなり曖昧かつ一方的なものであって、いずれも採用の限りでない。更に、右証言の中には、一二月二日の補講について、担任も授業もない原告が一時間だけ担当して残りの二時間を他の二人の教諭に割り当てたことから、従前からの不満が高じて柳澤主任にクレームを付けた者がおり、それが校長にも伝えられた旨を述べた部分があるが、原告は、産休明け後に補講が必要となった五時間のうち三時間を担当し、残る二時間のうちの一時間は保健室で仕事をしたことは、前記のとおりであり、また、原告が補講の割当てを担当していた昭和四九年から同五二年までの期間に特に原告の空き時間が多かったとか又は割当ての仕方が適切でなかったというような事情も認められないから、原告に空き時間があったことが推測される一二月二日の一時間の補講割当てのみを問題視して、これにより従前の不満が高じたというのは、容易には理解し難いという他はないし、そのようなクレームを柳澤主任が校長に伝えたものとすれば、むしろ、悪意の中傷に帰するといわざるを得ない。
そして、被告の主張では、産休明け後の補講割当てにおける原告の態度が仕事外しに至る最初の出来事となっていることからすると、この点に関する陳述書・審問調書或いは証言の右のような信用性は、その他の事実に関する部分でも重要な意味を持つものというべきである。
(4) 同年一二月二三日に、原告は、校長から校長室に呼び出され、「一二月一〇日の冬のボーナスを他の人と同じように受取りに来たのは良くない」「産休で長く休んだのだから、私にもあるかしらと事務の人が呼びに来るまで職員室の自分の席で待っているべきであった」「産休明け一週間ほど前に元気な様子を見せておいてそのまま六週間休んだのは良くない」「産休を取るとき、自分から何時から休みたいと申し出たのは良くない」などの指摘を受けた。その際、校長は、同席していた当時妊娠中の星野恵美子教諭に対し、「予定日はいつでしたっけ、あんたも遠くから通っているんだから無理をしないで、一月から休みなさい。」といった後で、原告に対し、「こうするものだ。自分からいい出すことではない。」旨を述べた。更に、校長は、原告に対し「産休を二度も取って、さんざん迷惑をかけている」「子供の病気で休まれて迷惑だ」などといったため、原告としては、長男を出産した後の二年以上の間、子供の病気では、一回早退したことがあっただけで、家族にも無理をかけてやって来たとの気持があったことから、「一回早退しただけです」「私はこれから休まないようにします」と応えたところ、「そういう態度が良くない」「甲野さん、そんな大きな口を利くものではありません。人間生身だからどんな事で休むかお互いわからないでしょう。」などと叱責されるということがあった。
もっとも、この点について、原告と同席していた星野恵美子の陳述書<書証番号略>中には、校長はボーナスや産休取得の件に関して原告を非難するようなことは全く述べておらず、原告の方こそ切り口上やきつい言葉で対応していたもので、原告がなぜ右認定のようなことをいうのか全く理解し難い旨の記載がある。しかし、同人の陳述書にも、原告が校長に対して「産休は権利です」とか「今後は一日も休みませんよ」と述べたことが記載されているところ、松浦正晃の審問調書<書証番号略>によると、原告は、被告では余り例がないのに、結婚及び産休取得の際には校長の自宅にまで挨拶に行っていることが認められ、それまでは校長に対して相応に丁重な態度を示してきたことが窺われることからしても、そのような原告が何らの脈絡もなく右のような言葉を発するに至ったものとは考えられない。したがって、星野の右陳述書の記載は不自然で信用し難く、かえって、右陳述書にあるように、原告が「産休は権利です」とか「今後は一日も休みませんよ」という言葉を発したとすれば、むしろ、原告が産休を取得したことについて校長から快く思っていないか又は非難めいた発言をされたことを推認させるに足りるものというべきである。星野の右陳述書によると、同人は、翌年の二月四日が出産予定日であって、一二月二三日頃、校長に対して出産予定のための時間割変更の申し出をしたところ、校長が出産直後で授業等を持っていなかった原告を呼んで時間割変更の指示をしたが、その際、星野が校長に対して、「私は、『一月になっても一〇日すぎまで出られます』と申しましたら、『そんな無理をしないで予定通り休みなさい。』という話がありました。校長先生は、甲野先生に『あなた、この星野さんの態度をどう思いますか。』と言われた時、甲野先生は、一言ぴしゃりと『産休は権利です。』と思いがけないきつい言葉を言いました。」というもので、これが事実だとすると、校長の原告に対する右質問は、原告が産休を目一杯取ったことに対して校長がどのような感情を抱いているかを如実に示したものということができるからである。また、校長の右質問との関係で見ると、星野が「一月一〇日すぎまで出られます」と述べたのは、星野の右陳述書によって、同人は当初の出産予定が早まって一二月三一日に出産したため結果的に僅か五日間の休暇しか取っていないことが認められることは別として、被告には十分な産休の取得を躊躇させるような雰囲気があったか或いは教職員の間に産休の取得を自制させるような心理状態があった可能性を窺わせるものである。
(二) 時間割ボードの書直し問題
(1) 原告は、昭和五四年一月から授業に復帰し、週二二時間の授業と週四時間の保健室当審を担当するようになったが、三年生の卒業試験の最終日であり入試直前の二月一四日、朝の挨拶に校長室へ行った際、校長から「時間割ボードが薄くなっているから、今日中に書き直しなさい」と命ぜられた。
時間割ボードとは、当該年度の時間割と担当教諭名を一覧にして職員室に設置してあるガラスの覆いの付いた表示板であり、その形状は、縦約二メートル、横約一メートルの木製の外枠の中に、教科名、科(普通科、商業科)、クラス、担任名を記載した木製の駒(表面にプラスチック板が張り付けてある。)がはめ込まれており、駒の数は全部で九〇〇個近くあってボード全体は女性一人ではとても取扱いのできない重量のものである。そして、通常であれば、ボードの書き直しは、三学期が終了した後に教務部の計画管理係が行うことになっていたが、当時は、夏に内装工事でシンナーを使用したためか駒の字が全体的に薄くなっており、一部は見にくくなっていた。しかし、他の職員らから薄くて見えないとの指摘がある程ではなく、また、二月一四日時点では三年生の授業は既になくなっており、一、二年生も学年末試験まであと二週間程度を残すだけという時期であったことから、必ずしも早急にボードを書き直さなければならない事情は存在しなかった。
(2) 校長からの右指示の意味を、全部の駒の書き直しを命ぜられたものと受け取った原告は、校長から指示を受けたものの、当日は六時間のうち五時間は授業が入っており、五時限目のロング・ホームルームの時間しか空いておらず、到底その時間に書き直すことは不可能であると思ったので、計画管理係の責任者である溝口一馬主事にその処置について相談したところ、右溝口が校長のところに話に行き、その結果、クラス担任名を書き直すだけで良いということになった。そこで原告は、計画管理係の木野教諭らにボード板の上げ下しを手伝ってもらい、職員室前の第一理科室で二月一四日の五時限目の時間を使って担任名を書き直した。
この点につき、柳澤史子の陳述書<書証番号略>、証人松浦正晃の証言及び同人の審問調書<書証番号略>中には、校長は原告に対して、全部の書き直しではなく、薄くなっているところだけ書き直せば良い旨を最初から指示したと述べた部分があるが、右はいずれも不自然であって信用し難い。すなわち、当時ボードの書き換えを担当していた計画管理係の主任である溝口が、原告からボード書き直しの件で相談を受けて校長のところへ指示を仰ぎに行ったことは、副校長である証人松浦も認めているところであるが(同証人の証言、<書証番号略>)、もし書き直しが簡単にできる範囲のものであれば、わざわざ溝口が校長の指示を仰ぎに行く必要があるとは思われず、この点からすると、全部の書き直しを命ぜられものと判断した原告から相談を受けた溝口が処置に困って校長の指示を仰ぎに行った旨の原告の供述の方が自然であり、その結果、担任名のみの書き直しで良いことになったものであるとの点も、証人松浦自身もボードのうち担任名の部分あたりが特に見にくくなっていた旨証言していることと合致して自然であり、信用することができる。また、松浦の右審問調書には、原告は、校長から、自分だけの仕事として駒の字の薄くなっている部分のみの書き直しを命ぜられたにもかかわらず、溝口に対して、教務係全体の仕事として全部の書き直しを命ぜられたものと報告した旨述べた部分があるが、仮にそのようなことをすればすぐに嘘をいったことが分かり、かえって他の教諭等の信用を失いかねないことからして、原告がそのような行動に出たとは思われないばかりでなく、もしそのような虚偽の報告をしたのであれば、原告は校長のところから帰った溝口からこの点を指摘されてしかるべきであるが、そのような事情を窺うべき証拠はなく、したがって、松浦の右審問調書の供述は信用し難い。
(3) ところが、その後、原告は、二月一六日の第一時限目の途中で校長室に呼び出され、校長から、「一四日の件は、自分が命令されたものであるのに、係の責任者に相談したのは上の者を突き上げたことになる。」「いわれた担任名だけは書き直してあるが他の薄いところは書き直してない」「薄いことに気づきながら校長に指摘されるまでそのままにしていた」「産後休暇を六週間全部取ったことは良くない」などと注意され、更に、「産休を二度取ってさんざん学校に迷惑をかけているのだから、人の倍働きなさい。申し訳ないという気持ちで働きなさい。私はあなたに辞めてもらいたいと思っている。あなたも良く考えなさい。」などといわれたので、同日の放課後三時過ぎに自分から校長室へ行き、「しっかり頑張るので続けさせて頂きたい。」と申し出たところ、校長から「あんたは何かというと一生懸命やる、頑張るというが一四日のような仕事振りではだめだ。」といわれ、最後に「本当に続けたいと思うなら、この間のことを反省して始末書を書きなさい。」と命じられた。そこで、原告は、自分の方から、一八日には日曜日直に当たっているので、そのときにボードの駒の字は書き直すことを約束して退室した。
この点につき、柳澤史子の前記陳述書<書証番号略>中には、同人は二月一六日の校長と原告との話合いに立ち合ったが、その際、原告の方から一方的に産休の話が出て、原告は、自分が産休を取ったために特別にこの仕事を与えられたと思ったからやらなかったと述べ、これに対し校長は、産休の話など二月一四日の時点でも一度もしてないではないかと述べた旨記載した部分がある。しかしながら、右陳述書の信用性については、前記(一)(3)で述べたような問題がある他、その記載からすると、原告は二月一六日まで全くボードの書き直しをしていないことが前提となっているが、二月一四日に一部の書き直しをしていることは前記認定のとおりであって、事実と異なるばかりでなく、原告は校長と柳澤が二時間位説得したにもかかわらず二月一六日には最後まで書き直しの指示に従うとはいわなかった旨記載されているが、原告が二月一八日には薄くなっているところを全部書き直したことは後に認定するとおりであって、右記載された原告の態度とは一貫性がなく不自然であること、原告の審問調書<書証番号略>によると、原告は、二月一八日の午前九時から午後五時までの日直の時間の殆どを費やして九〇〇個近くの駒の三分の一から二分の一を書き直したことが認められるところ、右陳述書によれば、原告は二時間位で書き直した旨述べていたとされているが、二時間では右個数の駒の書き直しは到底不可能であろうと思われる上、それまでの経過からして実際にかかった時間より短い時間を告げるとは思われないことなどからして、右陳述書のボードに関する部分は、にわかには信用することができない。また、原告は、被告に勤めるようになって以来、その勤務態度について問題にされたことはなく、校長に対しても相応に丁重な態度をとってきたことは、前記のとおりであるが、そのような原告が、僅か数時間で処理できる仕事を特別に与えられたからといって、産休を取得したために自分だけ余計な仕事を与えられたとしてあくまでも拒否し、後述のような頻繁な始末書の提出の要求にも抵抗し続けるものとは思われず、右柳澤及び松浦の供述ないし証言は、いずれも、信用することができない。
(4) 原告は、二月一八日の日曜日直の日に、勤務時間の殆どを使って薄くなっているボードの駒の字を全部書き直し、夕方の五時に校長宅に日直の報告として書き直したことを連絡すると、校長は原告に対し、「そんなことじゃない。始末書はどうなっているのですか。」といった。
以後、四月の初め頃にかけて、二月中は五回、三月中は九回、四月は六日まで四回、原告は、校長、副校長及び柳澤史子主任らから呼び出され、頻繁に始末書を書くよう求められたが、そのうちの主なものは、次のようなものであった(なお、原告は、二月一八日頃から、校長らにいわれたことはすぐにメモに取るようになった。)。
① 二月二二日には、朝に校長からすぐに始末書を書くようにいわれ、昼休みには柳澤主任から第一理科室に呼ばれて、なぜ始末書を書きたくないのか、自分も何回も書いたことがあるが書いた方が良いのではないかと何回もいわれた。三月七日にも柳澤主任から第一理科室に呼ばれ、「書かないとあらぬ疑いをかけられるかもしれない」といわれた。
② 三月一九日には、校長との話に初めて柳澤主任が同席し、副校長が途中から話に加わった。その席で、校長は原告に対し、「産休は権利だと思うか」と質問したので、原告がこれを肯定すると、柳澤主任は「まああきれた」と声を上げ、校長はそれに対して「そういう人なんです、この人は」といい、二人で顔を見合わせるということがあった。
校長のいい分は、「権利には義務が伴う。時間割ボードの仕事も義務である。ただ始末書の内容を限定する。二月一四日に仕事量のことで、やってみる前にケチをつけ、溝口先生を突き上げた。そして、仕事をやらなかったことを認めて始末書を書きなさい。」というものであった。これに対し、原告は、「仕事をしなかったというのは事実に反するし、他の仕事の命令は業務命令かもしれないが、始末書を書けという命令は業務命令とは思えないので、校長先生が書けというからといってすぐにハイといって書くわけにはいかない。」旨反論し、話がそれ以上には進まなかった。また、副校長は、三月一七日の新入生オリエンテーションがあった日に、原告が上司に挨拶しないで定時に帰ったことは許せないと原告を非難した。
③ 三月二〇日に、原告は副校長に呼び出され、前記一七日のことでも始末書を書くように命じられ、「あなたは不当労働行為という言葉を知っているか」との問に対し、これを肯定すると、「こういうことは不当労働行為ではないんですよ」といわれ、また、三月二二日には校長から呼び出され、「始末書を書けという命令に従わないなら、今月一杯で辞めてもらう。それとも一年待つか。選びなさい。」「辞めないなら授業も担任もすべて取りあげる。」といわれた。
④ 三月二四日の給料支給日には、例年、年度末の特別手当が支給されるが、同日支給された原告の給料袋には年度末の特別手当が入っていないので、校長に理由を聞きに行ったところ、校長は「自分の胸に聞きなさい」というのみであった。また、同日は午後一二時過ぎから五時頃まで副校長室に呼び出され、ボードのことに関して叱責された。
⑤ 三月二六日は、午前九時から午後一時までと、午後二時から午後四時四五分頃までの間、副校長から副校長室に呼び出され、始末書を書くように命じられ、始末書を書かないなら次の処分を考えるといわれて就業規則の懲戒規則を読まされた。
その後、三月二七日には、原告は、副校長から、ボードの件について、原告がなぜ始末書を出さないのか文書に書いて三〇日までに提出するように命ぜられ、原告が三〇日に右文書を提出すると、副校長はその場で読んだ上、これでは不十分だとして受取りを拒否し、更に文書を書いて提出するように命ぜられた。そこで、原告は四月二日の朝に文書を持って副校長のところに行く約束をしていたが、仕事が忙しかったりして夕方となってしまった。副校長は、翌三日の朝に、原告に対し、約束の期限に遅れたことにつき始末書の提出を要求したが、原告は始末書を提出する代わりに「詫び状」を四日に提出した。
(三) 昭和五四年四月から昭和五五年四月の仕事外しまでの間の経過
(1) 原告は、昭和五四年度は、当初から、商業科三年二組の担任と地理・日本史の授業を週二三時間担当し、校務分掌は渉外部(PTA係)、教務部(計画管理係)、生徒指導部(ペン字漢字係)を担当し、クラブ顧問は演劇部及びバスケット部を担当することとなった。
(2) 昭和五四年七月に、バスケット部の部員四名が万引きをするという不祥事が発生したが、その中には、原告が担任するクラスの生徒が一人含まれていた。右生徒の処分を決める最終会議において、クラブ顧問及びクラス担任のうちの一人が既に始末書を提出していることにつき、校長は、「自分を良くわきまえている。そういう気持ちのある人は同じようにしなさい。」と述べ、他の者も始末書を提出した方が良いことをほのめかした。そのようなことがあって、原告を除く他のクラブ顧問及びクラス担任は始末書を提出したが、原告は提出しなかった。
(3) 被告では、生徒が授業内容を理解しやすいように教諭は立って授業をするように常日頃から指導していたが、同年九月頃、校内巡視中の校長は、椅子に座ったまま授業をしている原告他二名の教諭を認め、授業が終って職員室に戻った原告に対し、「椅子に座って授業をするとは何事ですか」と叱責したが、原告は校長に対し、「ちょっとだけですよ」と反論するということがあった。また、その数日後の職員朝会で、校長は、特に個人名を挙げることなく「週二〇時間位の授業が大変で椅子に座るような体力しかない者はいて欲しくない」と述べた。なお、原告と同じように注意された他の二人の教諭は、この年度で退職した。
(4) 同年一一月一日、原告は放課後学年主任の宮本教諭と一緒に校長に呼ばれたが、その際、校長から、前年度の一二月に校長に対して今後は休まないといいながらその後一〇月一五日に病気で一日欠勤したことにつき、前年度の発言を反省して始末書か誓約書を提出するように求められた。これに対し、原告は、翌日「事情釈明書」と題する書面を提出したが、その内容は「人間が生身であるから欠勤せざるを得ないこともあるというご意見は全く異存ありません」「今後なお一層生徒指導に励みたいと思います」というようなものであった。
その後、一一月一〇日に、原告は校長から呼び出され、右事情釈明書では足りず、始末書を提出せよといわれたが、その際は、学年主任の前記柳澤教諭と宮本教諭が立ち会い、校長が両主任に原告と一緒に働く気はあるかと質問したのに対し、両主任とも自分の学年には入ってもらいたくない旨答えるということがあった。
(5) 同年一一月二二日か二四日頃、原告が校長のところへ自分の担任するクラスの生徒が校長宛てに作成した誓約書を持って行った際、校長から、「生徒には不都合な場合には誓約書を出させているのに、教師である自分が始末書を提出しないのはおかしい」「生徒の誓約書は原告の始末書と一緒でないと受け取れない」旨いわれたが、原告は、生徒の誓約書と教師の始末書とは性質が異なると考え、他にも仕事があったことから、「校長のお話はお聞きしておきます」と述べて退室した。
(6) 同年一二月四日、原告は校長室に呼び出され、校長から、副校長、前記両主任立会いの上で、ボードの書き換え問題で始末書を書かなかったことから始まってそれ以降の前記各問題につき、原告の態度は始末書に値するとして、始末書を提出するように求められた。また、その際、立会いの柳澤主任から、本来、クラブの顧問は生徒が帰るまで学校に残っていなければならず、また、クラブ活動に使用するテープレコーダーは視聴覚係の担当主任の許可を受けた上で使用し、使用後は所定の保管場所に返還することになっていたところを、同年一一月二二日頃、演劇部の顧問をしていた原告は、生徒より先に帰ってしまい、生徒に使用したテープレコーダーの返還方法につき何らの指示もしていなかったので、生徒がテープレコーダーを原告の机の上に置いたまま帰ろうとして、他の教諭が備品の取扱い方を説明して所定の保管場所に返還させるということがあったが、右原告の態度は無責任であるとの指摘がされた。それを聞いた校長と副校長は、原告に対し、「これじゃ始末書だけじゃすまない。辞めてもらう。」などと述べた。これに対して、原告は、産休を二度取ったから人の倍働かなければならないということでボードの書き直しを命じられ、そのことで始末書を書かなければならないことは納得し難いことであり、また、生徒の処分問題で教師が始末書を書かなければならないことも納得し難い旨反論した。
原告に対する右詰問は、午後三時五〇分頃から始まり午後八時四〇分頃まで続いたが、午後七時頃に校長が帰宅した後、原告は副校長から、「従うか、辞めるか、法的手段に訴えるかのどれか一つを選びなさい。」といわれたが、すぐには返答できないので一二月八日まで考えることにし、更に同日、翌年の一月七日まで待って欲しい旨を申し入れた。
この点につき、証人松浦正晃の証言及び同人の陳述書<書証番号略>中には、一二月四日に、就業上の指示に対して今後誠実に従うかどうかという被告の問い掛けに対して、原告の方から、①就業規則に従うか、②就業規則に従わないであくまで反対するか、或いは③法的手段に訴えるかの三者択一しかなく、どの方針を取るかの態度表明を一二月八日までに行うというような構えた発言をするに至ったとの部分がある。しかし、右証言及び陳述書によれば、原告の右発言はボード書き換えの件についての始末書提出に関するやりとりの結果としてされたものであることが明らかで、被告による執拗ともいえる始末書の提出要求が原因となっていることが窺われる上、就業規則に従わないなどといえば解雇その他の懲戒処分があり得ることは容易に推認されることからすれば、原告の方からそのような発言をしたというのは不自然であり、松浦の右証言ないし陳述書の記載は信用の限りではない。
(7) 翌一二月五日、原告が朝の挨拶に校長室及び副校長室にいった際、副校長は原告に対し、前日は原告のことで夜遅くまで時間を取ったのにそのことにつき挨拶がないとして「立っていろ」と命じ、原告をその場に八時一〇分頃から九時五〇分頃まで立たせるということがあった。そして、同月一〇日は、年末のボーナスの支給日であったが、被告は、原告が前記三者択一の返答をしないということで、同日原告にはボーナスを支給しなかった(それ以後も支払われていない。)。
(8) 昭和五五年一月七日に、被告は、校長、副校長及び前記両主任立会いの上で、テープレコーダーを用意して、原告に対し、前記三者択一の返答を迫ったが、原告は、学校側が主張するような意味での始末書は納得が行かないので提出するわけにはいかない旨主張した。校長は、「就業規則に従わないということですね」と念を押したので、原告は、「就業規則に従わないのではなく、今度のことは、納得できないので始末書は書けない。そもそも産休を取った者は人の倍働けといわれるのが納得できない。」旨主張した。
そこで被告は、原告に対し、原告に対する処置を決定する前に、原告の授業を受けている生徒達は原告をどのように見ているかを知りたいとして、原告に対し、同人が授業を担当している各クラスの最終授業日に生徒に感想文を書かせて提出することを命じ、原告も一応はこれに応ずる返答をしたが、右指示の中には、感想文の中には必ず良い点と悪い点の両方を書くようにというのがあったことから、その後、これは自分に対する差別の口実を見つけるためのものであり、いわば労使の紛争に生徒を巻き込むことになると考えるようになり、結局、被告の右命令には従わなかった。
この点につき、松浦証人の証言及び前記陳述書中には、一月七日に、原告は、被告からの就業上の指示には従えないと明言した旨述べた部分があるが、仮に原告がそのようなことを明言したとすれば、最早、生徒に感想文を書かせるなどという段階の問題ではなく、被告とすれば直ちに原告を解雇その他の懲戒処分に付するのが使用者として当然の対処の仕方であろうと思われるところ、被告はそのような処分もしていないことからして、到底信用し難い。
(9) 被告においては、それぞれの教諭は担当する清掃区域が定められており、当該清掃区域においてガラスの破損があった場合には、定められた期限内に係の教諭までガラス破損届を提出しなければならないことになっていたところ、昭和五四年度の三学期に原告が担当している清掃区域でガラスの破損があった(当事者間に争いがない。)。当時原告は三年生の担任であったから、本来ならばこのような破損届は三月五日の卒業式までに係の教諭まで提出すべきであり、遅くとも昭和五四年度が終了する同月二五日までには届け出て整理しておくべきものであったにもかかわらず、原告はその届を三月三一日になって、初めて提出してきた(この日に届けたことは争いがない。)。
(10) 同年三月三一日の朝会で、校長は新年度の新しい体制を発表したが、その中のどこにも原告の名前はなく、前記のとおり、授業、担任、その他の校務分掌すべての仕事から外されていた。そこで原告が、四月一日に校長室へ行き、皆と同じように仕事を与えてもらいたい旨頼みに行ったところ、校長は原告に対し、「権利ばかり主張して、就業規則に従わない者を普通に扱えますか。」「忙しいから出て行って下さい」と述べ、原告に仕事を与えようとしなかった。
2 仕事外しの違法性
(一) 以上認定の事実関係を前提にして、原告に対する仕事外しの違法性の有無について判断するに、被告が原告の教師としての適格性に欠ける理由として主張する事実のうち、一連の経過の発端となった補講に関するものは、それに該当する事実そのものがなく、ボードの書き直しについても、被告は原告に業務命令違反があった旨主張するが、前記認定した事実経過からすると、校長の原告に対する当初のボードの書き直し命令自体が不合理なものであって、業務命令権の濫用を窺わせるものであるが、いずれにしても、原告が校長の命令に背いたということはできず、原告に落度なり非難されるべき点があったとすることはできない。
しかるに、校長及び副校長は、前記認定のように、原告に対して繰り返し執拗にボードの件について始末書の提出を求めているが、被告の就業規則<書証番号略>によれば、始末書は、懲戒処分の一つである戒告として提出させることができる旨が定められているのみであることが認められるのであって、それ以外に、就業規則その他に始末書を提出させ得ることを規定したものは見当らないから、前記認定の事実関係のもとにおいては、原告に対して始末書の提出を求めることは正に無理難題を強いるもので、何らかの意図があることを窺わせるものという他はない。仮に、被告としては原告に始末書の提出を求め得る事由があると考えたとしても、原告がこれに応じない意思を明らかにしている以上、あくまでその提出にこだわるのは相当でなく、むしろ、始末書の提出命令に応じないことを理由として更なる懲戒処分に付する以外にないものというべきである。
そして、被告が、原告の勤務態度が不良であることを示す事実として主張する他の点についても、前記認定のような事実関係からすると、原告においても、校長や副校長との個々のやり取りの中においては、その言動の中に必ずしも相当でない点や率直さに欠けると見られる点が全くないとはいえないが、仕事外しに至るまでの一連の経過の中で見ると、むしろ、二回目の産休明けからの校長や副校長の原告に対する言動及び対処の仕方にこそ問題がありこれが原因となったものというべきであって、しかも、被告が勤務態度が不良であることを示す事実として主張するものの大部分は、校長や副校長などの使用者側との関係で生じたもので、教師の最も基本的な職務である生徒の指導・教育に直接に影響を及ぼす可能性のあるものが殆ど含まれていないことをも併せると、右の点をもって原告に教師としての適格性に欠けるものがあるとすることはできない。被告が主張する私立学校における建学の趣旨或いは精神との関連が問題となるようなことも認められない。
(二) 以上のように、原告に対する仕事外しについて、被告が主張する合理的理由は認めることはできず、一般的にも無理からぬと認められるような特別の事情があるものということは到底できない。かえって、<書証番号略>、証人矢口由紀子の証言及び原告本人尋問の結果によれば、被告が原告に対して仕事外しをするに至った理由なり事情については、次の事実が認められる。
(1) 被告の若手教師の間においては、昭和四九年頃から、現在の組合員である矢口、森及び原告らが中心となって学習会が行われていたが、これは若手教職員の教育実践と職場における意見交流の場として組織されたものであり、その活動はほぼ週一回のペースで学園外で開かれた読書会を主なものとし、その内容は、教科・教材研究、教育課程研究等教授実践の研究、班活動による学級運営、生活指導、非行問題等生徒指導の問題等の教育問題を取り上げた他、同時にこれらの教育実践の遂行を困難にしている被告の教育環境、教職員の労働条件の悪さ、その改善の方策等が議論された。
学習会の活動は、昭和五五年四月の組合結成まで続けられたが、特に昭和五三年度は、被告の若手教員の参加者が二〇名にも上り、盛況を極めた。
(2) 昭和五三年一〇月には、若手職員の発意により職員旅行が行われたが、それから三週間位して、矢口は、校長に呼び出され、「お前が若い先生達にいわせて旅行を計画したのだろう」といわれた(その後、職員旅行は行われなくなった。)。また、その頃、矢口は柳澤主任から「若い人達が月一回会合を開いていたのは知っていた」といわれたり、校長から、「外の活動を止めなさい。それを文書にして出しなさい。」ということをいわれたりした。また、校長は、昭和五四年一月六日の新学期出勤初日の職員朝会で、「外で学校に反するようなことをして、学校の中では涼しい顔をしているようなことは絶対に許しません。」などと発言し、同月一三日には、矢口に対し、「学校を改革しようなんていうのはとんでもないことです。あなたのしていることは全部分かっている。」などと述べた。
(3) 右認定の事実を踏まえて、前記「仕事外しに至る経過」で認定した事実を見ると、被告が原告から授業及び校務分掌の一切の仕事を取り上げたのは、教職員が自主的に集まることや産休を権利として主張することを快く思わない校長が、学習会の中心メンバーであり、かつ、産休取得のために必要な配慮をしたのにこれを当然の権利であるかのように受け止めて被告に対する恭順さを示さず固い姿勢を維持し続ける原告の態度を嫌悪し、これを被告の都合の良いように改めさせるか又は教師として被告に留ることを断念させる意図のもとでした嫌がらせという他はなく、したがって、被告の原告に対する仕事外しは、教師である原告に対する業務命令権の行使として、外形的に見て相当性の範囲を逸脱しているだけでなく、主観的にも不当な動機・目的に基づくものであって、違法であると認めざるを得ない。
なお、原告は、仕事外しは不当労働行為である旨主張するが、右学習会活動が組合結成準備活動としてされていたとまでは認められず、また、原告が私学労組に加入していたことを被告において知ったことを認めるに足る証拠はないので、これを不当労働行為であるとすることはできない。もっとも、右各証拠によれば、右学習会のメンバーのうちの数人が仕事外しが行われるより約三年も前の昭和五二年頃から、労働組合を結成するための準備活動をしていたことは認められるが、被告において右活動の存在まで知っていたことを認めるに足る的確な証拠はない。
三職員室内隔離、第三職員室隔離及び自宅研修命令の違法性
1 次に、職員室内隔離の違法性について判断するに、被告が、昭和五六年四月からも、前年度に引き続いて原告には授業及び校務分掌の一切の業務を与えず、その上、それまで他の教職員と並べて配置されていた原告の席を一人だけ他の教職員から引き離す形で職員室の出入口の近くに移動したことは、前記のとおりであり、原告に一切の業務を与えないことが違法であることも、前記のとおりである。
そこで、被告が原告の席を移動したことの違法性につき検討するに、被告は、その理由として、原告が職員室において他の教諭の会話を一々メモしたり、居眠りをしたり、或いは他の教諭との間でもめ事を起こすなど、原告の言動にはとかく他の教諭からひんしゅくを買うことが多かったからである旨主張する。
しかしながら、原告が他の教諭のどのような会話をどの程度メモしたのかは本件全証拠によっても必ずしも明らかでないし、仮に原告において他の教諭の会話をメモすることはあったからといって、同じ職員室内で席を移動してもこれを防ぐ決め手とならない以上、何ら合理的理由とはいえず、また、原告は、前年度から具体的な業務を一切与えられず、ただ一日中席に座っているしかないのであるから、居眠りすることがあってもやむを得ないことであり、席を移動することの合理的理由とはなり得ない。更に、証人松浦正晃の証言によれば、他の教諭とのもめ事とは、組合ニュースを配ることに関するものであることが認められるが、仮にそのようなことがあったとしても、席を移動することによって防止できるものでもなく、到底合理的理由とはなり得ない。
かえって、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、職員室内隔離に至るまでの事情として、、次の事実が認められる。すなわち、昭和五五年四月六日に組合が結成され、翌七日に被告にその旨通知されたことは前記のとおりであるが、組合結成の直前の同年三月三一日の朝会の席上で、被告の校長は「思想は左右に傾いてはいけない。外の集会や研究会に出たり、活動してはいけない。」と述べ、また、同年五月二七日に、被告は、女性教師を集めて原告の仕事外しの理由について説明会を開催したが、その際、組合員は原告を含めて全員出席を断られ、その件について組合が抗議をしたところ、副校長は「組合員は必要がないから出席は認めない」と述べた。更に、昭和五五年六月と一一月頃の二回にわたり、校長及び柳澤主任は、組合員森の福島県にある実家に電話をし、同人の両親に対して、同人は組合を作ったり好ましくないことをやっているので止めるようにいって欲しい旨依頼した。そして、昭和五六年三月二三日、組合が都労委に対し、原告に対する仕事外し及び組合員に対する賃金差別について不当労働行為救済申立ての手続をとったこと(都労委昭和五六年(不)第三七号事件)は、当事者間に争いがないが、原告が右提訴の日の朝、理由を説明して電話で欠勤の連絡をし、翌日副校長の所へ欠勤届を持って行ったところ、副校長は受け取れないといってその受領を拒否し、原告が職員朝会に出たいと述べたところ、副校長は、それを認めず、逆に「上司の命令に従わない者の身分は保証しない」などと述べた。また、同月二五日には、副校長が都労委からの説明を受けて帰校した後、矢口に対し、救済申立書の記載内容につき夕方から夜一〇時頃まで詰問し、同人の家族から被告に電話があって漸く解放されるということがあった。
以上の事実が認められ、右事実からすると、被告が原告から仕事を取り上げたまま原告の席を前記のように移動して他の教職員から隔離したのは、組合の結成を嫌悪した被告が、学習会活動から引き続いて組合の中心人物として活動している被告に対して行った嫌がらせであると共に、他の教職員に対する見せしめであると推認でき、したがって、被告の右措置は、不当労働行為であると共に、一人だけ原告の席を移動して他の教職員から隔離するという行為そのものの態様からして、明らかに違法であるといわざるを得ない。
2 第三職員室隔離の違法性について
昭和五七年三月八日、原告の使用していた机が職員室から二階にある第三職員室に移動され、被告が原告に対し以後はそこにいるように命じたことは、前記のとおりであるが、被告は、その理由として、同年二月二四日と三月六日に、原告と他の教員との間で暴力沙汰寸前のトラブルが生じ、被告の業務が阻害されるおそれがある事態が生じたため、これを避けるためにしたものである旨主張するので、この点につき検討するに、<書証番号略>、証人矢口由紀子、同松浦正晃の各証言及び原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。
組合が前記不当労働行為救済申立てをした後は、組合と被告との対立関係は一層強まって行ったが、そのような中にあって、当時組合の執行委員長であった森が、昭和五六年九月五日、生徒の成績評価の誤りを理由として被告から懲戒停職処分に付され、更に、同年一一月二〇日、懲戒解雇処分を受けるという事態が生じた(右各処分のあったことは当事者間に争いがない。)ため、以後、被告には組合の上部団体である私教連や様々な団体が、原告の問題及び森解雇に対する抗議の要請行動に来るようになったが、その際、抗議行動に来た者の中に、対応に出た被告の女子職員に対し、「おまえはオームだ」とか「お嫁にいけないぞ」などの暴言を吐く者もおり、右女子職員の殆どは被告の卒業生であったため、これを聞いた他の職員も憤慨し、組合員と他の職員との関係がまずくなっていき、職員会議では緊迫した状態も生ずるに至った。
昭和五七年二月二四日も抗議団が被告に押し掛けることにつき特別に職員会議が開かれたが、その席上で抗議団が来るのは組合の人達で止めさせることができるのであるから止めさせて欲しいとの意見が出され、それに対し組合員の西村が抗議団が来るのは自分達とは関係がない旨答えるということがあった。その会議が終了した後に、職員会議ではいつも積極的に組合批判をする体育科の岩本教諭が、組合員の西村の席に行き、同人に職員会議で話された内容につき更に回答を求め、これに対し西村は返事に困って下を向いているということがあった。原告は、その様子を心配しながら見ていたところ、副校長から「やられているよ、放っておいていいのか。」といわれたため、とっさに原告は西村と岩本のところへ行き、「一緒に話を聞かせて欲しい」と頼んだところ、岩本は「帰ってくれ」といって原告の肩を押したため、原告は転びかけ、思わず「暴力はよして下さい」といった。それを聞いた岩本は、更に「暴力とはこういうものだ」といって拳を振り上げ原告に殴りかかるような態度を示したため、近くにいた教師がとっさに岩本を押えて止めるということがあった。
また、同年三月六日土曜日の午後、私教連が被告に対する抗議のビラを被告の最寄りの東北沢駅及び池ノ上駅で配布したが、副校長の指示により、現場に行ってきた体育科の田中教論と職員室に残っていた原告との間で、ビラ撒きの件で口論するということがあったが、暴力沙汰になるというようなものではなかった。
右事実からすると、当時、原告や森の件について抗議団がしばしば被告に押し掛け、教育上好ましからざる状態が生じており、また、それをめぐって他の教職員と組合員との間に、職員会議等での緊迫した状況も生じ、両者の間の人間関係も円滑さを欠くという状況にあったことは認められるが、それ以上に、日常その件に関して暴力沙汰が生じかねないような状況にあったとまで認めることはできない。そして、右のような状況が生じた原因の一つは、被告の原告に対するそれまでの処遇に問題があったためであることは、前記認定の事実から明らかであって、しかも、抗議団の問題は、組合と被告間の問題であり、いかなる意味においても、原告個人を職員室から第三職員室に隔離することの合理的理由になり得ないことは明らかである。特に、岩本との件については原告に非があるとは考えられず、むしろ、岩本の態度に問題があるといえるにもかかわらず、被告は、同人に対しては何らの注意も与えず、原告のみを第三職員室に隔離したことは、前記認定にかかる従前の経緯からして、原告が組合員であることを理由とする差別的取扱いであって、不当労働行為であると同時に、第三職員室の状況及びそこへの隔離という行為の態様そのものからして、明らかに違法であると認めざるを得ない。
3 自宅研修の違法性について
昭和六一年八月三〇日、被告がそれまで第三職員室で勤務していた原告に対して、自宅研修を命じたこと及び自宅研修の内容は、前記のとおりである。ところで、原告を第三職員室での隔離勤務から自宅研修に変更した理由について、被告は、都労委に係属した事件も近い将来に結論が出される見通しが持てなかったことを挙げているが、都労委に事件が係属したからといって原告に対する第三職員室での隔離を解くことより違法かつ異常な状態を解消することを制限されるものではないし、また、都労委の結論の出ないことが被告への出勤そのものを禁止する理由になり得ないことは、いうまでもない。
そして、右事情及び前記認定の一連の事実からすると、被告による自宅研修命令は、第三職員室での四年以上の隔離勤務によっても自発的に退職する意思を示さない原告に対して更に追い打ちをかけたものであって、原告を被告から完全に排除することを意図してされた仕打ちという他はなく、組合員であることを理由とした不当労働行為であり、同時に、違法であると認めざるを得ない。
四一時金の不支給及び賃金差別の違法性
被告が、原告に対する昭和五三年度末一時金、同五四年冬季一時金、同年度末一時金を一切支給せず、また、同五五年度以降は諸手当、一時金を一切支給せず、賃金は同五四年度の基本給のみに据え置いていることは前記のとおりであるが、被告がそのような措置をとっているのは、前記認定の一連の事実関係からすると、原告が学習会のメンバーであることや、組合員であることを理由とする差別的な目的でされているものと認めざるを得ず、被告の右措置は違法であり、組合結成以後の時期に係る分については不当労働行為に該当するものと認められる。
五原告の損害及び被告の責任
被告による仕事外し、職員室内隔離、第三職員室内隔離、自宅研修及び賃金等の差別により、原告は、一〇年以上の長期間にわたって、教師として最も重要な職務である授業だけでなく、校務分掌の一切の仕事を取り上げられ、しかも、出勤することだけは義務づけられて、他の教職員から隔離された席或いは職員室から隔絶された一人のみの部屋で、一日中具体的な仕事もなく机の前に座っていることを強制され続けた挙げ句、自宅研修の名のもとに被告からも排除されてしまったのであって、このように、何らの仕事をも与えずに勤務時間中一定の場所にいることを強制することは、原告に対して精神的苦役を科する以外の何ものでもなく、また、右隔離による見せしめ的な処遇は、原告の名誉及び信用を著しく侵害するものというべきであって、原告は被告の右各違法行為によって甚大な精神的苦痛を受けたことは、誰の目から見ても明らかであり、多くの説明を要しないところである。
そして、前記の各違法行為は、被告の設置する高等学校の校長ないし副校長によってされた一連のものであるから、被告は、民法七〇九条、七一五条、七一〇条により、右行為によって、原告が被った損害を賠償すべき義務があるところ、原告の精神的苦痛を慰謝すべき賠償額は、違法行為の態様、違法行為の期間、違法性の程度、被告の不当労働行為意思等の主観的要素その他本件に現れた諸事情を総合的に勘案して、金四〇〇万円とするのが相当である。
なお、原告は、被告の第三職員室隔離及び自宅研修命令により、原告の組合活動家としての行動の自由が侵害された旨をも主張するが、勤務時間外の行動の自由まで制約されたことを認めることはできないので、教師としての行動の制約とは別に組合活動家としての行動の自由を侵害したとの事実を認めることはできず、また、組合の執行委員長として行っている訴訟事件ないし不当労働行為申立て事件の審理のための活動の自由が侵害された旨の主張は、仮にそのような事実があったとしても、それによって利益を侵害される主体は組合であって原告個人ではないというべきであるから、原告の右主張は斟酌の限りではない。
六結論
よって、被告は原告に対し、不法行為による損害賠償金四〇〇万円及びこれに対する履行期到来後である昭和六一年一〇月五日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるというべきである。
(裁判長裁判官太田豊 裁判官高田健一 裁判官山本剛史は填補のため署名押印することができない。 裁判長裁判官太田豊)